onoesanと猫と保育となんやかんや。

〜おいぼれ猫たちとの日々と、あれやこれや〜

保育園で。褒める順序を間違えると現場が混乱するという話。

※これはあくまで私の体験談をベースとした話です。保育方法をはじめとする諸々は保育園によって千差万別です。


「赤ちゃん」は卒業したものの、戦力としてはまだまだ当てにならない時代の皆さまが、最もお手伝いをしたがるものである。


おっ、ウチの子どももやっと使えるようになって来たな…と、親が感じる頃には「めんどくさい」と断られる。


「やる気」が最も高く「貢献度」が最も低い、反比例のグラフのスタート地点が2才くらいではないだろうか。


その傾向性を逆手にとって、渋るお子さまに動いてもらうことがよくある。


例えば公園や園庭から帰りたがらない時。

落ち葉や石ころを渡し、お部屋にいる先生に渡してほしいとお願いする。

ワケのわからないモノを届けてもらったお部屋の先生も、そこは心得ているので手放しで喜ぶ。



牛乳を飲む気にならない時。

飲み終わったら給食室までコップを片付けに行ってほしいとお願いする。

コップを一つ届けてもらった給食室の先生も、はて?とは思わず、よくぞ持って来てくれたと歓喜に沸いてくれる。


そうすると、お子さまたちは大満足をし、本来遂行してもらいたいコトをスンナリとこなしてくれる。
自己有用感は高まる一方。
次なるお手伝いは何かと、やる気はウナギ上りというものである。


ここが落とし穴だ。


お手伝い…この甘美な行為。コレに勝る喜びがあるだろうか。いや、ない。

大人たちは「デキるワタシ(ボク)」に助けを求め、無事に成し遂げると、こぞって賛美する。

しかも頼まれることは「やってあげてもいい」と思えるものばかりだ。
「デキるワタシ(ボク)」ならステキに鮮やかに簡単にこなしてみせてあげる。

なんて楽しいんだろう。


そうしてお子さまたちは「お手伝い」の上手な自分に酔い、さらなるお手伝いを探し始める。

保育園はご家庭と違い、限りある大人の目を自分に向け、かつ存在を認めてもらうためには、あの手この手が必要な場でもある。


—ナニカナイカ? デキるアタシ(ボク)を必要としている者はいないか?


あの極上の喜びを再び、である。



そこでお子さまたちは格好のターゲットを見つける。


「おともだち」だ。


お友だちのお手伝いをしてあげる。


「おやつを食べたから次はお散歩だ!おやおや、キミはまだ靴も出していないのか。出してあげようじゃないか。」


「まだ帽子をかぶっていないね。もう出発するよ。かぶせてあげよう。」


「あ、手を洗っているのか。ではタオルがいるね。お見通しだよ。とってあげよう。」


もともと持っている、助けてあげたい優しいキモチ褒めてほしいキモチが乗っかって、お友だちのお手伝いに夢中なお子さまたち。


優しい気持ちも、褒めてほしいキモチも発揮できない自分のことなんか、当然やってる暇なんてない。



お友だちの身支度に夢中な子は、オムツしか履いていない。

お友だちの靴を履かせてくれる子は、まだ裸足だ。

タオルを取ってあげた子の手がビチョビチョなのは言うまでもない。



月齢があがると、自分のことが自分でできるようになってくる。


「自分のことは当たり前にやってもらいたい」という大人の気持ちも手伝って、ついつい習慣化の目前で、認める行為を忘れてしまう。


「お支度、一番に出来た子、誰かな〜?」
「終わったの?1人で出来たんだね。」

なんて声がけが必要なくなるまで。



「やらないとなんだか気持ちが悪い」

と、本人が感じるところまで。



落とし込むまでには案外時間がかかるし、個人差もある。


そこまでは、何よりも
自分のことが自分でできる
という、とてつもなく素晴らしい事実に、最高の喜びを感じてもらいたい。

そうしないと、スッポンポンの世話好きなお手伝いさんが次々に出現して、現場は大変混乱するのだった。