腰が引けているし、怖気付いている。
正直な今の心境だ。
どのくらい怖気付いているかというと、初めて老猫の口の中にクスリを放り込まなければならなくなった時くらいである。
十一、ネコに錠剤。 - onoesanと猫と保育となんやかんや。
そんな私のキモチも知らず、ヨコタさんはいつもの明るい空気を纏って現れた。
「それはそれはもう、ほんっとーーーーに長いことお待たせいたしました。」
と、いつもの口調で新車に案内してくれたのだった。
今日は納車日だった。
ヨコタさんとの勝負に夢中になり過ぎた結果、車の色がいつの間にか黒になってしまったのは痛恨のミスだった。
責任はヨコタさんにあると思う、という話。 - onoesanと猫と保育となんやかんや。
しかし今日はもうひとつ、してやられていたことが発覚した。
我が家は3人家族で、最も車に乗るのは私である。
実に90%以上の確率で運転するのは私だ。
行き先は主に近所のスーパーだ。
それなのに新車は3ナンバーだった。
全然気づかなかった。
黒で3ナンバーの新車。
完全に油断していた。
敵はヨコタさんではなく、乗る機会は私より少ないが、私より車が好きな主人だった。
仕方なく真新しい車の運転席に乗る。
10年ぶりに買い替えた新車の、その"ボタン"の多さに驚きを隠せない。
コックピットかと思った。
コックピット、見たことないけど。
なんなんだ、このボタンの多さは…。
今までの5ナンバーの大衆車に戻りたい。
あの、全国で一番乗られている車。
どこに行っても必ず兄弟がいた、まったく目立つことのない車。
できれば一生添い遂げたかった。
どこに行くのにも一緒で、もはや身体の一部のような存在だったのに、高齢になり体のあちこちに不具合が多発し、もはやこれまでと涙ながらに別れることになった。
その悲しみは果てしない。
それなのに、勝手に家の者(主人とヨコタさん)に新たな婚約者を連れて来られた、そんな心境だ。
エンジンをかける。
今までは押して回していたのに、スタートボタンを軽く押すだけでかかった。ギョッとした。
表示が点灯したことから、エンジンがかかったことはわかった。
が、なんだろう。
まったく音がしない。シンとしたままだ。
エンジンがかかったのか、かかっていないのかわからないがギアをドライブにする。
すると、静けさの中スルスルと動き出した。
なんなんだ。
やる気があるのかないのか、さっぱりわからない。
このようなワケのわからない挙動不審な行動をされ、無性に前の車が恋しくなってきた。
後ろを振り返ると、前の車が、我が家でもない販売店の駐車場で、疲れたボディで1人取り残されて呆然と佇んでいる。
罪悪感でいっぱいになる。
あんなにお世話になっていたのに、このまま、こんな風に新しい車に乗った状態で別れて本当に良いのだろうか。
しかし運転中だ。
いつまでも後ろを振り返っているわけにはいかない。
しかしあまりにも思い出があり過ぎる…。
淋しさを振り切って、なんとか自宅の駐車場まで辿り着いた。
車庫入れだ。
今までの車なら、誰よりも上手に、完璧なポジションに停車することが出来た。
が、新車は大きかった。
大きい上に、何かモノに近づき過ぎると大声で教えるという設定らしい。
駐車場に入れ始めたら、ピーピーといろんな音を織り交ぜて、危ない危ないと伝えてくる。
いや、ここはウチの駐車場だから!私の方がわかってるから、大丈夫だから少し黙ってて、と多少トゲのある言い方をしても聞かない。
結局「ぶつかるよ!もっと気をつけて!」と、さんざん注意喚起のブザー音を連発するだけで、実際どこを気をつければ良いのか、ポストにぶつかりそうだとか、玉竜を潰しそうだとか具体的な指示を何一つ出すこともなく、停車したところでようやくブザーは鳴り止んだ。
前の車がいっそう恋しくなった。
真っ黒なボディは艶やかな光沢を放って通行人を振り返らせている。
花粉が飛び交うこの時期、いつまでこの"キレイ"を保っていられるんだろう。
夜になり、昼過ぎから塾に行っているムスコの迎えに再び出動する。
またしても静か過ぎて不気味な発進。
広過ぎる車内の空間。
どうしよう。
……快適、かもしれない。
置いてきた前の車が頭に浮かび、首を振る。
いやいや、アイツとは苦楽を共にしてきた日々がある。
こんなに簡単に寝返るなんてあってはならない。
しかし、大きいだけあって安定感がすごい。
乗り心地が良い、かもしれない。
後部座席に乗り込んだムスコが感極まった声で叫ぶ。
「おお、新車!カッコいい!!え、何これ。静か過ぎて怖いんですけど。」
大騒ぎで喜んでいる様子を見ていたら、少しずつ気持ちも上向いてきた。
確かに新車、カッコいいね!
盛り上がっているうちに家に到着した。
ようやくウキウキした気持ちが少し出てきたところで、降り際にフッと神妙な顔つきになったムスコが言った。
「お母さん。それであいつ、最期までカッコよかった?」
「…いや、武士じゃないから。」
返しつつ、今度は二人でしんみりしてしまったのだった。