布おむつと土鍋ごはん。

敷居が高そうでいて、やってみると世間のイメージよりもずっと楽な上、幸福感がけっこうあがるのが布おむつと土鍋ごはんだと思っている。


両者共にちょっとコダワリのある人たちのジャンルとでもいったイメージを放っているが、実際は始末が楽チンで、シンプル感が心地よい。


勤めている保育園も0才クラスは布おむつだ。
保育園の場合は、使用済みは袋にポイポイと入れて、業者さんに回収してもらい、クリーニングして配達してもらう。


保育園で布おむつを使うのは環境の為ではなく、快不快の感覚を育てたいとか、紙おむつよりも頻回かつ交換に時間がかかるため、保育士と一対一で向き合う一定の時間が絶対的に確保されること、それにより双方の気付きとアタッチメントの形成を促し、深めるというような経営側の理念からである。


自分自身が子育ての時に布おむつを使ったのは、これとは全く別の理由からだ。


まず、十分に使い尽くされて、いかにもクタクタと柔らかくて肌触りの良い感じに仕上がった状態の、可愛らしいバンビ柄の布おむつのお下がりを親戚から50枚ももらったこと。


加えて義母から、松坂屋高島屋かどこかのデパートで購入された新品の高級布おむつ20枚セットが送られてきたこと。


どちらも使ってみたい誘惑にかられる品だった。


今の時代は少し検索をすると、大袈裟ではないの?というくらい布おむつの洗い方が出てくる。

あまりにもご大層に記載されていると、怯んでしまう人がいるんじゃないかなと思ったりする。


まだ歩く前の小さな赤ん坊の排泄量なんて知れているのだし、離乳食もまだなら臭いだってご飯が炊けたようなものだし、第一我が子のソレをそこまで汚いと感じる親は少ない気がする。


使ったら、洗い流して除菌漂白系の何某かの溶液を入れたバケツにポイポイと浸け置きにし、溜まったら洗濯機で洗い、お日様の下でカラカラに干す。


真っ白なオムツが太陽の下で思いきり深呼吸して何枚も風に棚引いている光景は、白Tシャツがそのように干されているのを見れば、大抵は爽やかな気持ちになるのと同様に、柔らかくて優しい気持ちになる。


そのような状況下で干された白Tシャツを袖に通すのが最高に気持ち良いのであれば、布おむつはもっと極上に気持ちが良いはず。


それを赤ん坊の、クタクタに柔らかい肌にサラリと当てがって、気持ちがいいねと声をかける時のあの幸福感は、やはり布おむつならではのものではないかと思う。


一方の土鍋は、重いのは難点だけれど、炊飯ジャーほどのスペースはいらず、キッチンの使いやすい場所を塞ぐことがないのが良い。


予約はできないが炊き上げるまでの時間はせいぜい10分前後、気軽である。


他の支度をしている間に炊けるのでちょうど良いくらいだ。


もう10年以上、炊飯器を使っていないので味はどちらが良いのかはわからない。おそらくどちらも十分に美味しいだろう。


ただ、土鍋でごはんを炊くと、終盤にカタカタカタとグツグツグツ、蓋がかすかに揺れる音と米がいよいよ炊けた音が聞こえてくる。
それが聞こえてきて、火から下ろすとシューっと真っ白な湯気が蒸気機関車のように気炎を吐く。


そのあたりの展開は、炊飯ジャーよりも見せ場がいっぱいで、さも美味しく作っているドヤ顔感が満載である。


その様子が、こいでやすこの「おなべ おなべ にえたかな?」
に出てくる鍋と重なり、作者はきっと毎日土鍋で料理していたんだろうなと思う。


絵本の中の鍋が作っているのは、たんぽぽの入った春のスープだけれど、

「おなべ おなべ にえたかな?」

「フツ フツ フツ にえたか どうだか たべてみよ フツ」

のフレーズと共に描かれる土鍋と、キツネのきっこやイタチのちぃとにぃの、今か今かと待ち侘びる表情に、炊き上がりに感じる幸福感はやはり土鍋ごはんならではのものではないかと思うのだった。