今朝は一転して調子が悪いソル。朝から吐き、食欲も昨日ほどではない。
そうなると勝手な私は、
「昨日の食欲はどうしたんだよ」
と心配で仕方がなくなる。
ハラヘッタと一日中後をついてまわり、帰宅したら必ず玄関まで来てナオナオと訴える日常にはヤレヤレと思うのに、それがないと急速に不安になる。
結局のところ、どう転んだところで気になって仕方ない。まんまとそんな感じである。
原因はもう、ソルの振る舞いに他ならない。
ルナは時に話し相手だったり、ルームメイトだったり。
もう15年の付き合いだし一応女の子だし、本当に大切な存在だけれど、彼女とはどんなに近くにいても常に一定の距離があって、立場的には彼女の方が優位にいるのを感じる。
一方でソルはもう、とにかく赤ん坊なのだ。
月齢で言えば、一日中後追いをし、常にこちらの愛情を確認するかのような眼差しを向け続ける生後8ヶ月あたりの男の子を彷彿とさせる振る舞いをする。
世話の大変さはルナの30倍くらい。
子猫のように小さくなってしまった体は嘘のような軽さで、薬を飲ませる時には両前脚をまわしてギュッと私の右腕にしがみつく。
そうして薬を口に放り込んだ後に飲ませるチューブ状の液体ちゅ〜るの先に、チュパチュパと哺乳瓶のミルクを飲む子のように夢中で吸い付く。
結局のところ私は、この日々がとても大変で疲れ切っているのと同時に、とても愛着を持っている。
そしてこの日々が終わるということはソルとの生活が終わるということを意味する、という状況が長く続いていることにもかなり疲れているのだ。
宙ぶらりんの、死刑宣告をされたのに執行の日を教えてもらえないようなそんな日々。
こんなに赤ん坊みたいなネコを、痛がらせたり怖がらせたりしたくない。
最後の時には絶対にそばで、出来る限りのことをしてやりたい。
赤ん坊のような振る舞いをするソルに対して、こうした母親のような執着を覚えてしまうのは生き物としての本能なのかもしれない。
それに加えて利己的な理由、同い年のルナと相次いで…というのは勘弁してもらいたい、とも切実に思っている。
ルナだけだったら、もしも喪失感が耐え難いものとなったら新しい猫を飼うという選択肢に希望を見出せたはず。
でもソルと暮らしたことで、それはとても危険なことだと気付かされてしまった。
動物病院の先生は、ここまで大変な子はそういないと言っていたけれど、次に飼う子がそうではないとは誰にも言えないのだ。
猫の寿命を考えたら50才を超えた自分が新しい猫を迎えて、命の責任をしっかりまっとうすることが出来る自信なんて、残念だけれど到底ない。
だから2匹は私にとって、きっと最後の猫だ。
こんなことをツラツラと考えていたら夜になった。
満足感があるかもしれない、というのと、カサ増し感覚で、久しぶりに胸肉を低温調理したところ、2匹とも喜んで食べた。
一日中ついて回られ、鳴かれまくっていたから、ついついソルのことばかり考えてしまう黄金週間だった。
愛玩動物って本当に家族、いや限定的な意味においては家族以上かもしれない。
ソルの今後のライフプランが見えない以上、私も出来る限り無理をせず、この生活を楽しまないといけないと、ひたすらソルに捧げた黄金週間の終わりに改めて思うのだった。