近所に住んでいる同世代のサキコさんと食事に行ってきた。
サキコさんも最近太ったことを気にしているらしい。
私から見ると全然そんなことないけれど、確かに中高年というのは隠れたところがボタボタとなりがちだから、本人が"太った"と言うのなら、それはそうなんだろう。
少し前に会った時、臨界点(主人の20代の頃の体重)を超えてしまったという話をしたところ、サキコさんはその話をご主人にしたらしい。
とうとう、この日が来たという話。 - onoesanと猫と保育となんやかんや。
先日ご主人とすれ違った時、とても爽やかに挨拶をしてくださったけれど、家に帰ったら
「臨界が歩いていたよ」
とサキコさんに言ったそうだ。
知らないところで自分が「臨界」呼ばわりされていた。
心の中でそのあだ名で呼ぶ分にはまったく問題ないが、夫婦で共有するのはやめてもらいたいと訴えたのだった。
ところで偶然サキコさんのご主人に会ったその日、"臨界"こと私は、歩いていたのではなく走っていたのである。
ご主人はウォーキングと早とちりしてしまったようだが、実際のところ、私はとても軽やかにジョギングをしていた。
散歩中の、杖をついたお爺さんにも、トイプードルにも、柴犬にも抜かれたけれど(柴犬はその後、駄々をこねて歩かなくなったために抜き返した)それでも走ることをやめなかった。
たとえ走る倍のスピードで歩いたとしても、疲れ具合から言って消費カロリーは走った方が高い。多分。疲れ具合から言って。
だから私はどんなに遅くても良いから、できるだけ走るようにしている。
タスキもバトンも託されていない以上、どんなに遅かろうと自由だ。責任がないって最高。
と、そこに仲間が現れた。
彼は私に気づくと、甲羅に身を隠すかと思いきや負けじとばかりに走り出した。
私には、彼もまた、私と同じく走っていることがわかった。
とても颯爽とした後ろ姿、ギュンと伸ばした後ろ脚だったからだ。
走っている姿というのはやはり良いものだ。そこに速いだの遅いだのはナンセンス、しみじみとそう思ったのだった。
友を得て、その日は想定していた距離を楽しく走り切ることができたのだった。
自称太ったサキコさんに、その話をしてジョギングを勧めたところ、ご主人と一緒にウォーキングをしているから必要ないと言われた。
そうか。サキコさんのご主人は一緒にウォーキングをしてくれるのか。
私なんて、今日も出がけに
「また姥捨山してやろうか?」
と言われたのに。
5駅歩いて幸せになった。 - onoesanと猫と保育となんやかんや。
あの置き去りのモチーフは、やはり姥捨山だったか。
ババアは自分の足で家に帰って、美味しいビールを飲んだけどね。
その話を、ついサキコさんにしてしまった。
サキコさんは「私は主人にそんな目に遭わされるなんてこと、絶対にないわ」と、目をキラキラさせて楽しそうに聞いてくれたのだった。
食事を終えると、サキコさんのご主人が車で迎えに来た。
2人が乗り込んだ車が発車したのを見送った時にようやく、このあと車内で自分のあだ名が「臨界」から「ウバステ」になるであろうということに気が付いたのだった。
が、時すでに遅し。
今さらどうにもならないのだった。
あの夫婦に本名を印象付けられるエピソードが何かないかと、今必死で考えている。