老猫と暮らす
ゴミを出しに外に出たら、早くも強い陽射しが照りつけていた。強烈に暑いやつが目前に迫ってますよ、とでも言いたげだ。梅雨入りすらまだだというのに。
先月、メスの老猫が16才になった。まもなく誕生日を迎えるオスの老猫も後に続いてくれそうだ。ハラヘッタと歌いながらヨボヨボと家の中をうろついている。
重い腸疾患を患うオス猫は、食べられるものがとても少ない。2年前、食べても下痢にならない猫缶を見つけた。以来、その82gの猫缶は、物価高の荒波に揉まれて価格がどんどん上がっている。
つい先日まで、300円という価格が物を買う時の目安になっていた。300円あれば猫缶が1缶買える。買い物に行くと、これを買わずに済ませたら猫缶がいくつ買えるなとか、これは猫缶いくつ分に相当するなとか。そんなことばかり考える。
でも今はもう、300円では全然買えなくなってしまった。
そんな中、彼も彼なりに工夫している。いくら可愛いポーズをキメたところで、見てもらわなければ意味がない。飼い主はここのところ、猫缶ちょうだいのキメポーズをしようとするとすぐに目をそらすようになった。さてどうするか。

そう考えたかどうかは不明だが、最近、よく鳴くようになった。
その鳴き声は独特で、老いた生き物だけが醸し出せる哀切のこもった響きに、乳児が母親を求めて本能的に発する耳障りな泣き声を加味したオリジナルである。それに日々磨きをかけている。
工夫の甲斐あって、その鳴き声はどの音よりも強烈に私の耳に飛び込んできて、こちらの注意をグイグイ引きつける。
聞こえないふりを続けると、そのうち開いている窓に近づいていき、外に向かって鳴き始める。
哀れで不幸な老いぼれ猫が、お腹を空かせて泣いてます〜〜
時折り根負けする。鳴くのを止めてくれたらおかわりをあげるから…。それで日に2缶せしめることもある。
とはいえ、大盤振る舞いをしても2缶どまりだ。どんなに創意工夫を凝らされてもこれ以上はあげることができない。
ーしかし最近、結果として、これこそが寿命を延ばしている要因なのかもしれないと感じるようになった。
余命もとうに告げられているのだ、よほどの高額でなかったら、きっと欲しがるだけあげていただろう。
が、我が家の経済状況から言って、この猫缶は"よほどの高額"なのである。故に、もともと大喰らいの彼が少食にならざるを得ないのが現状だ。それにより、心臓への負担が軽減されているのかもしれない。
真偽の程はわからないが、いずれにしても、小さな頃から病気三昧だったメス猫と、晩年になってから次々と病魔に襲われ、とっくに余命宣告されているオス猫が、今日も床に転がってまどろんでいる。無事に誕生日を迎えられたら猫缶2缶の大盤振る舞いで讃えてやりたい。
相変わらず夜中に必ず吐く。場所を選ばない下痢と軟便が、日に20回は軽く超える。片付けがしんどく感じる時もある。しかし本人は、出すものを出せば大抵はケロッとしてスヤスヤと寝ているのだから、それはもう、呆れるほど愛おしい。
ここ数年でつくづく思い知らされた。動物と暮らす日々は、なんて贅沢で幸せなことか。それが犬でも鳥でも、きっと変わらない。温かな体、それを包むみっしりとした毛、言葉を交わすよりもはるかに深く伝わってくる愛情。
いびきが聞こえる距離で寝起きし、こんなに長く一緒にいるのに、決してこちらの心を傷つけてこない。その絶対的な、ゆるぐことのない安心感。
彼らと共に暮らせる日常以上の幸せは思い浮かばない。
朝起きたら猫がいる。ニャーとかキャキャとか、それぞれに、ハラヘッタとか、やっと起きたかとか文句を言いにくる。
目が合って、おはよう、と言う。今日も会えたねと笑う。撫でると眩しそうな顔になる。ゴロリと横になり、前脚をギュッと縮めて、ひらいて、そのうち喉がゴロゴロと鳴る。
彼らの生きている時間は本当に豊かだと思う。今日も私は傍にいて、感謝と敬意を持って、束の間その恩恵に浴するのだ。


イナバさんと春
家から歩いて5分のところにあるコンビニに向かう途中で、イナバさんに会った。イナバさんは家の前に立っていた。
最初、その人がイナバさんだとわからなかった。イナバさんの家の前に、知らないオジサンが立っていると思った。
こちらに背を向けた小太りのオジサンが振り返って初めて、それがイナバさん本人であることがわかった。
イナバさんの髪の毛は薄茶色に染められていた。風通しの良さそうな頭頂部で、薄茶色になった髪が心許なくフワフワと風にそよいでいる。
イナバさんだとわかっていたら道を変えたのに。
失敗したと思ったが、時既に遅し。ここでUターンをするのはあからさま過ぎる。ご近所付き合いのルールに反してしまう。
イナバさんは会社で偉い人らしい。だからと言って、近所では全然偉くない。なのに、なぜかとても偉そうな態度でいるから、私は日頃、イナバさんとはなるべく話をしなくて済むように気をつけている。
イナバさんはご近所の人をランク分けしている。夫とは、気分が良い時は親しげに言葉を交わす。こいつとは対等、と思っているフシがある。
私にはそっけない。挨拶をすれば鷹揚に頷く。上司か。イナバさんは不機嫌が顔に出やすい。イナバさんの部下でなくて本当に良かった。
この前の公園の清掃の時、ムカイさんなどは、イナバさんは私が挨拶しても無視するのよとプンプン怒っていた。
わかるわかる、と思わず頷いてから、しまったと思う。ご近所付き合いのルール、悪口には同意しない、に反してしまった。
そんなイナバさんの頭頂部が様変わりした。フワフワの薄茶色の髪の毛は楽しげで、優しく踊っているようですらあったから、振り返った顔がイナバさんだった時は、本当に驚いた。
挨拶もそこそこに通り過ぎようとしたのに、頭頂部から目が離せなくなってしまった。
ダメだ、早く視線を外さなければ。
そう思えば思うほど、私の両目はイナバさんの、フワフワとほどよい隙き加減の頭髪に吸い寄せられ、いよいよ固定されてしまった。
どうしよう。何か言わなければ。イナバさんが私を睨みつけている。
唐突に、自分でもギョッとするような大きな声が出た。
「やりましたねえ!」
そう言って私は、自分の髪をポンポンと叩いてみせた。
ただ挨拶をすれば良かったのに、どうしてそんな余計なことをしてしまったんだろう。それが自分のことであっても、私にはわからない。
イナバさんは怖い顔をしたまま黙っていたから、そのまま通り過ぎるわけにもいかない。それで、小さな声で付け加えてみる。
「私もしようかな、茶髪…」
本当はまるでそんなことは考えていないのに。
イナバさんは黙っている。
家に帰りたい。
その時、イナバのおじいちゃんが家の中から出てきた。私に向かって片手を挙げ、
「どうもどうも」
と言い、そのまま2人の間を軽やかに横切って出かけて行った。散歩だろうか。
もうすぐ90才で、ツルツルと滑らかな頭頂部を持つ、イナバさんそっくりのイナバのおじいちゃんは、イナバさんと違って、すこぶる感じが良い。すれ違う時はいつだって、どうもどうもと言いながら片手を挙げて挨拶してくれる。
おじいちゃんを見送ると、イナバさんは
「どのみち、あと数年したらああなるからね。最後に派手に打ち上げて終わるのも悪くねえなって。若い頃にいっぺん、やったことはあったんだけど。ま、これでおしまい」
そう言って、フワフワの茶髪を恥ずかしそうに撫でた。
イナバさんは確か、まもなく定年退職である。
打ち上げ花火というよりは、たんぽぽの綿毛を思わせる。
綿毛がすべて旅立ちを迎える頃には、イナバさんもきっと、イナバのおじいちゃんのような素敵な人になっているだろう。
そんな予感がする。
春はもう、すぐそこまで来ている。
おノエ、お金持ちと高齢出産に思う。
動物病院でたまたま出会ったお金持ちの女性の家の、シッターをすることになった。
30代後半のお金持ち、と勝手に見積もっていた彼女は、40代前半のお金持ちだった。大人の女性の年齢を当てるのは難しい。
外見の若さに反して感じられた、貫禄というか余裕は、もしかしたら40年以上生きてきた経験値に寄るものだったのかもしれない。
一方、実際の年齢に反して感じられる、彼女の見た目の若さ…髪や肌の美しさなどは、お金の力によるところもあるのだろう。
シッターもハウスクリーニングもデフォルトで頼む予定だったとのこと、やはり階級の違う人だなと、最初は思った。でも、そうではなくて時代の変化なのかもしれない。子育ても多様化している。
この年で頑張って産んだのだからもう十分、必要ならどんどん人の手を借り、周りの人に育ててもらおうと思っている…そんな風に話す彼女は、肩の力が良い具合に抜けている。心の持ちようは、高齢出産と経済力の強みかもしれない。
とは言え、40代の初産は体の負担も大きい。人によってはハゲてしまうくらいだ。しかも、うかうかしているとあっという間に更年期に突入する。
実際のお預かりは、出会いから半月ほど経ってからスタートした。私のミッションは、この美女の、やんごとない姫の育ちをほんの少しお手伝いすることである。
頑張ろうじゃないの、と思っている。
おノエ、お金持ちの事情を知る
動物病院でお金持ちらしき女性と遭遇→→→車で家まで送る→→→お茶でも飲みませんかと誘われる→→→せっかくなのでと家にあがりこむ→→→女性からシッターを頼まれる、onoesanこと私だった…
動物病院を出てから1時間近く経つが、赤ちゃんは、時々あやしてもらうだけで、泣くこともなく抱かれている。
「実はこの子、未熟児で生まれて2カ月間ICU に入っていたんです。だから我が家に来てからまだ3ヶ月なんです」
色白の赤ちゃんは、私が的中させることができたくらい、5か月の赤ちゃんにふさわしい育ちを見せている。むしろ、大きいくらいだ。
「そうなんです。ミルクも規定量しっかり飲んでくれるし、夜もたくさん寝てくれるし、本当にスクスク大きくなってくれてる…」
女性は赤ちゃんを愛おしそうに見つめた。
「産後、私が退院してから娘を迎えるまで2か月あったので、しっかり準備する時間はあったんです。もちろんシッターさんも契約済みでした。本当なら今頃、お任せしている予定だったんです。それが…」
再びこちらをじっと見つめてくる。
「一度でもこうやって、お願いする前に来てもらっていたらこんなことにならなかったんですけど…。実は、猫を飼っていることはお伝えしたはずなのに、来て頂いた方が猫アレルギーだったんです」
自嘲するように笑う。
「でも、さっきも言ったとおり、どうやら本当に手がかからない子らしくて。ネットを見ると、皆さんもっと大変そうなんですけれど、今のところは1人でけっこうやれてるんです。だから派遣先からは、すぐに代わりの方を探すって言ってもらったんですけど保留にしてもらっています。もしかしたら、遠くから来てもらってまるまる長い時間入ってもらわなくても大丈夫かなって。私の通院とか、予定がある日だけ見ててもらえたら乗り切れるかもって。急に来られない時があっても、こちらの予定を調整するので全然かまいませんし」
そういう事情であれば、保険や金額面…まあ金額は気にしないのだろうけれど…私の方で手続きを進めて問題ないかも…と、話を聞いたことでようやく色々と見えてきて、一気に安心したのだった。
そんな私の様子に女性も安心したらしく、すっかりリラックスした様子になった。
「まさか41にもなって赤ちゃんが出来るなんて。てっきり夫婦2人で余生を送るだろうからって、売りやすいように手頃でコンパクトな家を建てたのに、人生、何があるかわかりませんね。付き合いのある友人に子供がいる人、ましてや赤ちゃんがいる人なんて一人もいないし、切迫早産で入院してから体力が落ちちゃって何にもできないし…ほんと、まいってたんです」
色々驚いたものの、どう返事をして良いのかわからず黙っていると、
「でもこんな出会いがあるなんて、この子に感謝しなくちゃ」
と言って、茶トラを見た。
膝に乗りたくてスタンバイしていた茶トラが、期待したようにニャッと鳴いたのだった。
おノエ、お金持ちから頼まれごとをする
動物病院でお金持ちらしき女性と遭遇→→→車で家まで送る→→→お茶でも飲みませんかと誘われる→→→せっかくなのでと家にあがりこむ→→→ゴージャスな雰囲気にのまれる→→→女性の視線に、何か話したいことがあるらしいとようやく気付いた、onoesanこと私だった…
女性が、ようやく話ができそうね、という顔をして、私に尋ねた。
「あの、それで…さっき、車でお話しされてたことなんですけど」
(さっき車で?…なんか話したっけ?動物病院のことかな…。だとしたら大正解だよ!あの病院のことなら大抵のことは知ってるからね…もしかして棚に"今日の猫村さん"の1巻と2巻がないって話?それなら豆柴のハナちゃんの飼い主さんが、読んでみたいからって院長先生に頼んで貸してもらってるから来週には戻ってくるはず…でも絶対に続きが読みたくなるから、次は3巻と4巻が見当たらなくなるはず…あ、もしどうしてもすぐに読みたいんだったら私、貸しましょうか?ウチに全巻ありますから。面白いから超オススメですよ!…って、これ、ひょっとしてお金持ちに借りを作ることになっちゃうんじゃ…なんだかご利益がありそうな話になってきたね…フフ)
「あの、お気楽に働いてるってお話です。それは、シッターさんということでしょうか」
「(ああ、なんだ、そっちか…)そうですね、大体そうかな。でも本当に、お気楽に、なんです。はっきり言ってしまうと猫ファーストで。猫の様子によっては急にキャンセルしますけど、それでも良いですかっていう」
「家で赤ちゃんを見ていてもらえるってことですよね」
「そうですね…。いえ、ウチに連れて来てもらってお預かりする方が多いかな。それもやっぱり猫がいるけどそれでも良いですかって言って、それでOKしてもらった場合だけですね」
「赤ちゃんの家に行かれることもあるんですよね」
「そうですね、ご事情があればもちろん。でも、すぐに帰れるような距離のお宅だけですね。まったく、なんか、何様?って感じですよね〜、ほんっとお気楽!いや、実際のところ、お気楽に働いてる場合じゃぜんっぜんないんですけどね〜ほんっと困っちゃう…」
「ウチはそれでかまいません」
「は?」
「いえ。むしろそうして欲しいです、猫ちゃんファーストで。本当に、できる限りのことをしてあげてくださいね」
「はぁ…。(よくわからないけど)ありがとうございます…」
このタイミングで、なぜか赤ちゃんがウキーッと笑い出し、女性が「ね、いいよねそれで」と赤ちゃんに言った。
「本当にお気楽でいいんです。急な話で申し訳ありませんが、お願いできませんか」
私はこの時、世のおじさまたちが美人の頼み事に弱いという腹の立つ話を、実感として認識することができた。ここまでの美人に頼み事をされたのなんて生まれて初めてだ。なんか全身の細胞が喜びを感じている。なんなのコレ?こんなの絶対に断れない。これは確かに…。だって、こんなにキレイな人に頼られて、舞い上がらない人がいるのだろうか。さっきの調子じゃ、もしここにいるのがダンボの飼い主さんなら、今頃はもうイチコロだったろう。でも、でも、そうだよ、だめだめ。
「…ごめんなさい、でも、私…その…、やっぱりウチでお預かりしたいんです。特に赤ちゃんは絶対です!だって、だってこの子たち、寝るじゃないですか!なんならお預かりしてる間中、ずっと、ずーっと、ひたすら寝てることがあるじゃないですか!その時、ひとさまのお宅だとブレスチェック以外には何もすることもないのに、むやみに視線を動かすのも憚られるじゃないですか!何もしないでぼーっとしてるの、私、貧乏性っていうか貧乏なんで耐えられないんです!その上、最近の若い人って見守り録画とかするじゃないですか!いや、私のこと見たいんじゃないことくらいわかってますよ、監視のためだって。わかってるんだけど、っていうか私のところなんて、そうじゃなければむしろカットしたいんでしょうけど、なんか…フフ…照れちゃって。カメラ目線になっちゃったりなんかして、もう恥ずかしいったらないんです!!」
一気にまくし立てた。そして付け加えた。
「でも、だからと言って、お宅のようなお嬢さまをお迎えできるような家ではないんです。ですからちょっと…」
すると女性はフッと笑い、王手!とばかり、こう言った。
「わかりました。カメラは止めておきます。寝ている時はテレビを見ててもらっても良いですし、お茶やお菓子も出しておきます。お湯はポットに入っていますし、もちろん本をご持参頂いてもかまいません」
え!?そうなの?そんなことして頂けるの?そんな話、海外ならわかるけど日本じゃ聞いたこともないよ!そんなの、そんなの…最高過ぎるじゃないですか!!
…しまった、ニヤついちゃったかも。慌てて女性を見ると、こちらを凝視している。
…いや。でもやっぱりこんな話、おかしくない?大体どうして初対面の人にそんな大事なこと頼めるの?そうだよ、考えてみたらまだ、名前も、連絡先だって知らないのに。
すべて顔に出ていたらしい。
「とりあえず連絡先を交換してもらえますか」
言われるがまま、LINEを交換させて頂いたのだった。
おノエ、お金持ちの気持ちに勝手に寄り添う。
初対面の、お金持ちらしき女性を家まで送ったら、良かったら家でお茶でもと誘われた。
お言葉に甘えて上がり込み、ひさしぶりに興奮を覚えるonoesanこと私であった。
女性は、ソファーの前に置かれたテーブルにお茶の入った藤色のカップを置いた。赤ちゃんをはさんで向かい側に座る。
まだ少し熱いかもしれませんがどうぞ、と勧めながら、寝返りに飽きたのか、ぐずりだした赤ちゃんを抱き上げる。
それから、こんな風に誰かとお茶を飲みながら話すなんてひさしぶりです、と言ってゆるく笑った。
「もしかして、ここには最近引っ越されてきたんですか?あの…、おウチが新しそうだなって」
「そうなんです。実はここ1,2年、本当に色々なことがあって。引っ越してきたのも去年なんです」
「ご実家は遠いんですか?」
「ここからだと車で2時間はかかるかな。…と言っても親も高齢ですし、私も運転ができないのでなかなか…」
ああ、なるほど…つまりこれは、誰かと話がしたかったということか。
…いや、でもわかるよ、うん、わかる。誰も知らない土地で、いくら可愛いとはいえ1日中赤ちゃんと2人きり。そりゃ誰かと会話をしたくもなるよね。
それにしても、こんな、知らないおばさんの車に乗って、あげく家に入れる…その心境はいかほどだったろう…こんなに綺麗な人がお気の毒に…まあでもそういう事情だったのか。初めての子育ては大変だよね…。
勝手に納得がいき、私はとても満足した。
「赤ちゃんとずっと2人きりは、いくら可愛くてもしんどいですよね」
お決まりのセリフを口にしたその時、どこにいたのか茶トラの猫がやってきた。
女性が腰を落ち着けたのでチャンスだと思ったのだろう、赤ちゃんを抱いている女性の膝に無理やり割って入ろうとする。
「わあ、すごい、甘えん坊ですね。ウチの猫たちじゃ、ありえないです」
「本当ですよね、この子は特に甘えん坊で。私が娘といる時に限って間に入ろうとするんです。もう1匹はそうでもないんですけど」
「いくつなんですか」
「去年うちに来たばかりで、2匹ともまだ1才なんです」
「わぁ。若くていいなぁ。ウチはもうどっちも年寄りの病気三昧で、1匹は余命も宣告されてて、ほとんど介護生活です」
「わかります、すごく。私もあの頃はもう、なんにも手につかなかったな。」
そう言って女性は、視線を出窓に投げた。出窓に置かれた水槽の陰に、骨壺が入っているのだろう、布製の小さな入れ物が大切そうに置かれていた。そのまわりに数枚の黒猫の写真が飾られている。
「19才まで頑張ってくれたんですけど、腎臓の病気で一昨年の冬に」
「そうだったんですか。…あれ?じゃ、割とすぐに新しい子たちをお迎えした?あれ?赤ちゃんが来ることがわかってから、その…?」
しまった。これはとても余計なお世話、プライベートな話につながってしまうじゃないか。
言葉に詰まっていると、女性は微笑んで教えてくれた。
「どっちが先だったか…多分、猫たちが来てから妊娠に気づいたんだったかな。本当に同じくらいだったと思います」
「…でも、赤ちゃんと猫2匹って大変ですよね。ごめんなさい、ウチも同じようなタイミングでものすごく大変な思いをしたのでつい…。立ち入ったことを聞いてしまって」
「全然。実は私も、前の子の最期がものすごく辛かったので、もう飼うつもりはなかったんです。夫にも、そうはっきりと言い聞かせていたんですけど、結局、彼、我慢できなくなってしまって…」
重度の猫ロスにかかってしまった旦那様が、たまたま会社の近くの、譲渡会の貼り紙がしてあるお店に吸い寄せられ、そのままトライアルだからと家に連れて帰ってしまった。それも2匹…。
「来ちゃったら私だってもうダメでした。それで結局迎えることに」
「そうかぁ。そりゃ、家に来られちゃったらもうダメですよねえ。」
「そうなんです。あの、それで…」
そうかそうか、なるほどね。まあでも、そういう事情で話し相手になれたのなら良かったよ。いや、むしろ気分転換になったから、こちらこそありがとうだよ…。
ん?…あの、それで?
そう言えば、車の中でも何か言いたそうだった。あれ?話し相手が欲しかったんじゃないの?
お茶を飲むのをやめて女性の顔を見ると、女性は私をじっと見ていた。
令和の、アフターコロナに、誰かと話したいという理由だけで初対面の人間を家に招き入れるなどという昭和な出来事はどうやら起きないらしい…と、その時に悟ったのだった。
おノエ、お金持ちのおウチを見た後が心配になる。
初対面のお金持ちらしき女性を家まで送ったら、家でお茶でもどうですか、と誘われた。
お茶でもどうですかと誘われたのに気分はすっかり「渡辺篤史の建もの探訪」、ステキなお宅を見学する渡辺篤史だった。
ワクワクしながら足を踏み入れた。が、リビングにたどり着いた時点で早くもおなかいっぱい、エンディングテーマが頭の中で流れそうになる。
たった10分、だけどもう、十分の撮り高だ。寝室やお風呂、子供部屋なんかは見せてもらわなくて良いだろう。まあ、そもそも見せてもらえるわけないけどね…。
そんなことを考えていたら大事なことに気がついた。
今日はあのCMがないじゃないか。
「渡辺篤史の建もの探訪」は私にとって、それだけでは成立しない。あくまで視聴後に必ず流れるCMまでがセットである。
せっかく素敵なおウチにいる気分だったのに、テレビを消した途端に現実に引き戻されたら、置き去りにされたようなわびしさに包まれかねない。
そんな視聴者にワンクッションおかせてくれるのが、放送後に必ず流れる断捨離番組のCMである。これで心の均整をとってからテレビを消す。
古い団地やアパートなどによくある3LDKの間取りに、捨てられない子供の作品や頂き物の食器、はるか昔に高値で購入した衣類…そんなモノに囲まれて、途方に暮れているごくごく普通の人たち。
そういう人たちがプロの片付ける人たちに叱咤激励されながら必死で部屋の中を片付ける。
そうだよ、これがフツーの暮らしだよ、そうそう。お互い頑張って片づけようじゃないの…
さっきの人たちはさ、どうせ親が裕福なんだよ、あんな人たち、めったにいないんだから、悪いこと、してるのかもよ…。
さてと、そろそろお風呂洗っとくか。ああ、おとうさん、もうテレビ消していいよ…。
今日はあのワンクッションCMがない。私はこの夢の世界から、一体どうやって前を向いて家に帰れば良いのだろう…
女性が赤ちゃんをバウンサーに降ろし、横のスイッチを押した。バウンサーがゆっくりと揺れる。赤ちゃんは不服の泣き声をあげた。
抱き上げて、下のマットに置き直されると、そこで寝返りに挑戦し始めた。あともう一歩のところで手が抜けずに苦戦している。
こちらにどうぞ、と勧められたソファーは薄いグレーの布張りで、5人はゆったりと座れそうである。
来客然としてソファーに座るのが躊躇われて、飽きずに寝返ろうと奮闘している赤ちゃんのそばの床に座る。
「お気に入りの茶葉をブレンドしてもらったものがあるんですけど、苦手なお茶ってあります?」
全然、ありがたくいただきます、と言うと、良かった、お気に入りの茶葉の店なので、行くとついあれもこれも欲張って買ってしまって…。色々種類がありますから、おかわりも是非なさってくださいね、などと言う。
…やめたやめた、家に帰った後の心のケアなんて考えず、今を楽しもう。
お茶の時間はこれからなのだから。