家から歩いて5分のところにあるコンビニに向かう途中で、イナバさんに会った。イナバさんは家の前に立っていた。
最初、その人がイナバさんだとわからなかった。イナバさんの家の前に、知らないオジサンが立っていると思った。
こちらに背を向けた小太りのオジサンが振り返って初めて、それがイナバさん本人であることがわかった。
イナバさんの髪の毛は薄茶色に染められていた。風通しの良さそうな頭頂部で、薄茶色になった髪が心許なくフワフワと風にそよいでいる。
イナバさんだとわかっていたら道を変えたのに。
失敗したと思ったが、時既に遅し。ここでUターンをするのはあからさま過ぎる。ご近所付き合いのルールに反してしまう。
イナバさんは会社で偉い人らしい。だからと言って、近所では全然偉くない。なのに、なぜかとても偉そうな態度でいるから、私は日頃、イナバさんとはなるべく話をしなくて済むように気をつけている。
イナバさんはご近所の人をランク分けしている。夫とは、気分が良い時は親しげに言葉を交わす。こいつとは対等、と思っているフシがある。
私にはそっけない。挨拶をすれば鷹揚に頷く。上司か。イナバさんは不機嫌が顔に出やすい。イナバさんの部下でなくて本当に良かった。
この前の公園の清掃の時、ムカイさんなどは、イナバさんは私が挨拶しても無視するのよとプンプン怒っていた。
わかるわかる、と思わず頷いてから、しまったと思う。ご近所付き合いのルール、悪口には同意しない、に反してしまった。
そんなイナバさんの頭頂部が様変わりした。フワフワの薄茶色の髪の毛は楽しげで、優しく踊っているようですらあったから、振り返った顔がイナバさんだった時は、本当に驚いた。
挨拶もそこそこに通り過ぎようとしたのに、頭頂部から目が離せなくなってしまった。
ダメだ、早く視線を外さなければ。
そう思えば思うほど、私の両目はイナバさんの、フワフワとほどよい隙き加減の頭髪に吸い寄せられ、いよいよ固定されてしまった。
どうしよう。何か言わなければ。イナバさんが私を睨みつけている。
唐突に、自分でもギョッとするような大きな声が出た。
「やりましたねえ!」
そう言って私は、自分の髪をポンポンと叩いてみせた。
ただ挨拶をすれば良かったのに、どうしてそんな余計なことをしてしまったんだろう。それが自分のことであっても、私にはわからない。
イナバさんは怖い顔をしたまま黙っていたから、そのまま通り過ぎるわけにもいかない。それで、小さな声で付け加えてみる。
「私もしようかな、茶髪…」
本当はまるでそんなことは考えていないのに。
イナバさんは黙っている。
家に帰りたい。
その時、イナバのおじいちゃんが家の中から出てきた。私に向かって片手を挙げ、
「どうもどうも」
と言い、そのまま2人の間を軽やかに横切って出かけて行った。散歩だろうか。
もうすぐ90才で、ツルツルと滑らかな頭頂部を持つ、イナバさんそっくりのイナバのおじいちゃんは、イナバさんと違って、すこぶる感じが良い。すれ違う時はいつだって、どうもどうもと言いながら片手を挙げて挨拶してくれる。
おじいちゃんを見送ると、イナバさんは
「どのみち、あと数年したらああなるからね。最後に派手に打ち上げて終わるのも悪くねえなって。若い頃にいっぺん、やったことはあったんだけど。ま、これでおしまい」
そう言って、フワフワの茶髪を恥ずかしそうに撫でた。
イナバさんは確か、まもなく定年退職である。
打ち上げ花火というよりは、たんぽぽの綿毛を思わせる。
綿毛がすべて旅立ちを迎える頃には、イナバさんもきっと、イナバのおじいちゃんのような素敵な人になっているだろう。
そんな予感がする。
春はもう、すぐそこまで来ている。