掛け算は確かに大切だけど、という話。

数年前に珍しく雪が積もった時、ちょうどインフルエンザに罹患していたムスコは外に出ることができなかった。


まだ小学生だった彼は、泣いて泣いて、出席停止期間が明けるのを待って、跳ねるように外に飛び出していった。


すでに半分は土で黒くなった雪の上を大はしゃぎで転がりまくり、何もかもを泥だらけにして上機嫌で帰ってきたのだった。


そして数年ぶりに雪が積もった今回、ムスコはまたもやインフルエンザによる出席停止中なのだった。


幸い、もう泣くことはなかった。


一方の私は、朝からワクワクしていた。


出席停止中のムスコは塾にもサッカーにも行かない。
雪を心配した主人はリモートワーク。

送迎が一切必要ない。

夕食を作りながら飲んで大丈夫だし、食事も一括提供で済む。

しかも翌日は土曜なので、弁当の準備も早起きもいらない。

というわけで、夕食を済ませ家事雑事を終わらせると、完全な自由に包まれたのだった。


野菜室の銀杏を取り出す。


トンカチでコンコンと割る。
一発でピッと気持ちよく裂け目が入る場合もあれば、何度も叩かないと割れない強情な殻もある。


リズミカルに叩いていき、すべての銀杏に裂け目を入れることができたら、グリルに放り込む。


コーギー犬ノエちゃんの可愛らしいYouTube動画を視聴しながら、あつあつの殻を急いで外していく。
薄皮を綺麗に剥いで、エメラルドグリーンの、ツルンとした光沢を放つ美しい実にするためには我慢が必要だ。


手が離せなかったので、ノエちゃんの動画が終わって放っておくと次の動画が始まった。


流れてきたのは、自分の4人のお子さんをすべて東大に入学させたというお母さんが、視聴者からの質問に答えるという動画だった。


1年生の子がいる視聴者からの相談が読み上げられた。


うろ覚えだが、ざっくりとこんな感じ。


「ムスコは計算が得意ですが、反復練習をしないため、時折り引き算を間違えるようなミスをします。
サッカーは練習をしっかりして上達しています。
だから練習を重ねる大切さは理解しているはずなのに、繰り返しを嫌います。
どうやら掛け算もあまり覚えていない様子です。
一体どうしたらよいでしょうか…」


途中まで、フーン…と何気なく聞いていた。


ただ、掛け算もあまり覚えていないというくだりでは、

「意外にこういう基礎的なコトが出来ない子って多いのかも。ナナちゃんのママも、ナナちゃんが掛け算で覚えてない段があるって嘆いてたっけ…」

と思ったのだった。


ナナちゃんはムスコと同じ中学一年生。


そう。私はてっきり、この相談が中学一年生のママからのものだと思っていたのだ。


だから、この悩みに対する返事が、

「これはちょっとお母さんも反省して、少し焦った方がいい。掛け算をまだ覚えていないなんて。とっとと覚えさせなさい。」

というモノだった時、

「うんうん確かにそうだよ。さすがに掛け算は覚えておかなくちゃ。焦った方がいいよ!」

と、激しく同意したのだった。


ところがコレは小学一年生のママからの質問だったのである。


びっくりした。


掛け算は小学二年生の内容だ。


なんで一年生で覚えていないことが問題なんだろう。

あろうことか、公文をやっているのなら六年生までの内容は全部さっさと終わらせてしまいなさい、とまでアドバイスしていた。


コレを聞いた時は真っ先に、もしもこの人の子どもだったら中3でスーパーマリオブラザーズの幻の9面まで辿りつくことは不可能だった、危なかった、と思うのと同時に、あの偉業を成し遂げた日の感動が蘇ってきて胸が熱くなったのだった。


そして上野千鶴子さんの東大新入生に向けた演説を思い出した。
自分の力でここにいるなどとはユメユメ思うな、というやつ。

この話を地で行くだろう、この方のお子さまたち。
経済的、精神的支援は自分たちと同じようにふんだんにしてもらっただろうけれど、

「自分が東大に行きたいと思ったから、自分でさまざまな勉強方法を試行錯誤して、自分なりのやり方で合格を勝ち取った。」

であろう級友に対して、引け目を感じないで生きていけるのだろうか。

そんな、大変余計な心配をしたのだった。


そして先程、このお母さんじゃなくてセーフ!などと思ったことはすっかり忘れ、

「ムスコがマイクラに夢中すぎる」

ことについて相談に乗ってもらえないかな…と思ったのだった。


矛盾だらけの日々である。


そしてやっぱり、銀杏と熱燗の組み合わせは最高なのだった。