たまに子どものお下がりをくれたり散歩に付き合ってくれたりするご近所さんのサキコさんが子犬を飼い始めて、ちょうど半年が過ぎた。
白に近いクリーム色の、オスのチワワの名前はベンツ。由来はメルセデス・ベンツで、外車好きのご主人が命名した。
小さなベンツはとても臆病で、初対面の人が来ると歯を剥いて身構える。近づくと怯えて体を震わせながらキャンキャン吠え立てる。
ペットショップで売れ残って、売り場をいくつも渡り歩いたらしいんだよ、半額の値札がついていて安くなっていたから買うことにしたんだ。
こんなに情けない性格になったのは、たらい回しにされた過去が影響しているのかもしれない、そう言ってサキコさんは足元の子犬を見た。
どんな名前を付けるかは飼い主の自由である。しかし「ベンツ」ではない。初めて会った時、震えながら威嚇するチワワを見てそう思った。
それで、心の中でこっそり「佐吉」と呼ぶことにした。大物感はないけれど、サキチとサキコは似ているし、真面目に頑張りそうな名前である。
2人きりの時に声に出して呼んでみた。佐吉ははっとしたようにこちらを見て、それからおずおずと近づき、私の手の中のおやつを受け取った。
程なくして、サキコさんの膝には乗らない佐吉が私の膝には乗ってきて、くつろぐようになった。サキコさんは納得のいかない様子である。
名前が気に食わないからだと、本当のことを教えてあげたい。でもサキコさんのご主人は苦手だ。余計なことは言わないでおこう。
佐吉はサキコさんの家の、19才になるハルカちゃんを慕っている。ハルカちゃんはベンツの佐吉を「ベンちゃん」と呼ぶ。
ハルカちゃんが帰宅すると、サキコさんの前をそそくさと横切り、ハルカちゃんの元へ急ぐ。腕の中におさまって至福の時を過ごす。
「ベンちゃん」と優しく呼びかけられると、うっとりと目を細めて微笑む。彼が猫なら間違いなく、喉をゴロゴロ鳴らしているだろう。
一方サキコさんはロッテンマイヤーさんのように厳格な口調で「ベンツ!」、時には「こら、メルセデスベンツ!」などと言って声高に叱りつける。
佐吉はロッテンマイヤーのサキコさんは苦手だけれど、それでもサキコさんがいないと家がまとまらないことも多分わかっている。
なんだかんだ言っても頼りにしているのでサキコさんの言うことはよく聞くし、サキコさんの姿が見えないと心細そうに鼻を鳴らす。
散歩に出発すると、なぜか佐吉は別犬のようになって私を驚かせた。意気揚々と機嫌よく先頭を歩く。追い越すと吠え立てて、下がれと言う。
途中で他の犬に出くわすと、慌てて後ろに下がってきて震える。そこで抱き上げると、途端にまた威勢が良くなり、相手の犬に吠え掛かる。
再び降ろせば大慌てで隠れる佐吉を、サキコさんは恥ずかしい奴だと言う。ハルカちゃんは可愛いと言う。私は、佐吉が犬で良かったと思う。
サキコさんを始め、ご近所の知り合いのお宅が、ここのところ立て続けに犬を飼い始めた。皆、子供に手がかからなくなってきた頃合いである。
子どもが少しばかり大きくなったところで生活は忙しい。時間はいくらあっても足りない。やりたいこともやりたくないこともたくさんある。
でも、世話を焼いてきた相手に少しずつ必要とされなくなってきた。気の抜けたような戸惑っているような、そんな表情になっていた彼女たち。
そんな、束の間の放心状態にある彼女たちが見せた小さな隙間に、犬たちはまんまと潜り込んだのだった。
そうして現在、彼女たちは一様に、思ったよりも躾が大変だの、世話が焼けるだのと色々文句を言いながら、張りのある顔つきに戻っている。
犬はしょせん犬でしかない、私はそう思っていると、サキコさんは繰り返し言う。何度も言うので、まるで自分に言い聞かせているみたいだ。
先日サキコさんに、これから届け物を渡しに寄ってもよいかと聞くと、やっとベンツが寝たところだからチャイムは鳴らさないでと言われた。
サキコさんにとって、佐吉は初めて飼う動物である。サキコさんはこれから佐吉にいろんなことを教わるのだ。私が2匹の老猫からたくさんのことを教わったように。