あれから半年と少し。

 

「高い猫缶、好きなだけ食べていいから」

 

そう伝える私の目を、彼は真剣に見つめ返した。

 

昨年の、いよいよ酷暑が始まらんとする7月のある日のことだった。

 

あれから半年と少し。

 

彼が食べた高級猫缶は、200缶を優に超えた。

 

今日もまた、猫缶が供されるのを今か今かと待っている。

 

目が合ったらすかさず立ち上がって、前脚をこすり合わせて拝む。その態勢にいつでも入れるようにしていることが、モゾモゾと動く後ろ脚の気配でわかる。

 

いつもの朝が始まる。

 

「…誤診だったんじゃない?」

 

後から起きてきた夫が、皿に頭ごと突っ込んでワシャワシャと猫缶の中身をかき込む老猫を見つめてつぶやいた。

 

私もあれから、あの日のことを何度も思い返している。

 

あの日の夕方、ぐったりとして動けない様子の老猫、ソルをケージに入れて病院に向かった。

 

ーおそらく少し前に罹った急性膵炎が悪化したのだろう。もしくは他の、いくつもの持病が悪さをしているのかもしれない…

 

そんなことを考えながら診察室に入った。

 

触診をする先生の顔が、急に険しくなる。

 

レントゲンを撮るから待合室で待つように言われた。

 

ずいぶん待った。

 

後から来た患者さんたちが、診察を終えて次々と帰っていく。時折り待合室を横切る先生の表情が、心なしか暗い。

 

とうとう待合室に1人きりになったところで名前を呼ばれたのだった。

 

先生が診察室の電気を消した。すると、壁に大きく映し出されたレントゲン写真がくっきりと見えた。

 

獣医師2人体制のこの病院は、大きな診断や施術は2人で行っている。この時も2人だった。

 

心臓や肺の位置、白くなっている部分がどういう状態にあるか、画像の隅に出ている数値が何を示すのかなど、ひとつずつ説明があった。

 

結論として、既に抱えきれないほどの病名を頂戴している老猫に、新たに「肥大型心筋症」という病名が加わったのだった。

 

先生は伝えにくそうに声を落とすと、あと1ヶ月は難しい、ここ数日でお別れになるということも十分あり得ます、と言った。

 

薬と、最期に呼吸が苦しくなる病気だからと、酸素テントのレンタルカタログを渡された。

 

家に着くと涙が止まらない。落ち着こう、そう思った。落ち着いて、しかるべき対応をしていくのだ。一緒にいられる時間は、あとほんのちょっとかもしれないのだから。

 

「もう高い猫缶、好きなだけ食べていいからね」

 

真っ先にそう伝えた。その後も合わせると、3回は伝えた。

 

あれから半年と少し。

 

夫も息子も私のことを疑い始めている。誤診じゃないなら、診断を大袈裟に言ってない?と。

 

当のソルも納得のいかない顔をしている。

 

私に騙されたと思っているフシがある。そういう目でこちらを見ている時がある。

 

確かに、ソルのことは結果的に騙したことになる。好きなだけ食べて良いと言っておきながら1日1缶、懇願に負けても1.5缶だ。今日も大切に食べるんだよ。

 

薬が切れて通院すると、先生が嬉しそうに驚く。

 

老猫を何度も撫で、すごいねえと話しかける。

 

それから上を向き、最後に私に釘を刺す。

 

「今の状態はなんというか、ラッキーにラッキーが重なった、とにかくものすごくラッキーな状態です」

 

撫でられた老猫は機嫌良く、ゴロゴロと喉を鳴らし続けている。

 

さまざまなケアが必要な日々は、慢性的に寝不足だし、どこにも行けない。いつも頭から小さな姿が離れない。経済的な負担に関しては目を覆いたくなる。

 

それでもやっぱり、ラッキーが続けばいいと思う。

 

機嫌良く、穏やかに過ごせる日が一日でも長く続いて欲しい。

 

今日も夢中でちゅ~るに吸い付く彼に、大好きだよ、ありがとう、君はすごい子だねと話しかけている。

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※※※

お読みくださりありがとうございました。

ブログを始めてから一年と少し、ひとさまの日常を覗くのはこんなに楽しく、また、さまざまな気づきを得られるものなのかと、日々ワクワクと読ませて頂いております。

しかし、読むのがとても遅い私は、新着の15記事前後が1日に読む限界量で、なかなか更新に追いつけません。

にも関わらず、私の長文気味の、実用性がこれっぽっちもない文章を、互助的なお気遣いから読んで頂いたり、スターを付けてもらうのはとても心苦しく、いっそ更新しない方が負担を減らせるのではないか、などという本末転倒な気持ちが日毎に強くなってしまいました。

そこで、忙しい時には気兼ねなくすっ飛ばして頂けるよう、試しにスターを外してみることにしました。

今後もブログとの程よいお付き合いの仕方を模索していきたいと思います。

それでは感染症が流行っておりますので、皆さまにおかれましては、お身体どうぞご自愛くださいませ。

ゆるんで、たるんで。

私の中でチビデブおばさんが生まれたのは、年が明けて間もない、1月のことだった。

とうとう、この日が来たという話。 - onoesanとなんやかんや。

 

月日は瞬く間に流れて、とうとう、年の瀬を迎えてしまった。

 

暑い夏の日々、体重計に乗ることすらサボって怠けまくっていた私を尻目に、彼女は水面下で着々と領土を拡大していった。

 

秋の到来を感じる頃になってようやく、遅まきながらコトの深刻さに気づいたのだった。

 

このまま大人しく彼女の軍門に下るわけにいかない、なぜなら私はまだここにこうして存在しているのだから。

その思いが体の底から湧き上がり、先月から猛然と反撃を開始した。

そういう流れであった。

 

しかし、走れども走れども痩せない。筋トレしても痩せない。若い頃より食べる量を減らしているのにまったく痩せない。

 

もう何をしても痩せる気がしない。

 

私の体は石になってしまったのだろうか。

 

完全に手詰まりとなり、深い、闇のような絶望感に襲われた。しかし諦めたら最後である。何とか考えを巡らせ、時間で管理するという作戦を思いついて実践したのだった。

※時間で管理…1日を3交代制にして食物の摂取タイムを8時間に限定する作戦。私は昼12〜夜8時に設定した。(発想過程は違うものの、やり方はリーゲインズとかオートファジーとか、きちんとした名称の付いているダイエット方法と一緒だということをブクマ他で教えて頂きました。ありがとうございます!!)

 

その作戦を実行したところ、それがプチ断食スタイルであったことから、プチ悟り症状が起きてしまった。

 

感謝が止まらない。止まらないというより爆走を始めた。

 

店で服を買う。

 

すると、その服をデザインした人、縫製した人、タグを付けた人、店舗に搬入した人、平棚に並べた人、店頭で販売した人などなど、考えてみれば膨大な人たちの力によって、今、私はこの服を着ることができている。

その人たちのことを考えているうちに胸がいっぱいになる。

 

なんてありがたいんだろう。合掌。

 

目に映るすべてのものに深い感謝を感じずにはいられなくなった。万物礼賛。日々、心が感謝でいっぱいになり、しみじみしているうちに時がたち、夜になる。そんな毎日。

 

悟りをひらいてしまったことは誰にも言わなかったけれど、悟りのオーラは出てしまっていたのかもしれない。

 

人は、悟りをひらいた人に何かを施したい、もしくは何か食べさせてあげたい…どうやらそう思うようだった。そうでなければ、彼らは実際、チビデブおばさんの放った刺客だったのかもしれない。

 

コストコで買い過ぎた、大根が採れ過ぎた、銀杏をたくさん拾った、みかんが大量に送られて来た、オープンセール大特価だったからお裾分けだよ…さまざまな理由で、あとからあとから私の元に知り合いから食べ物が届けられた。

 

そうしてある夜、とうとう日本酒がやって来て、それにより私のブッダな日々が終わった。

 

箱パックの黄桜のドンを、大切に大切に飲んでいるのが日常の私は、一升瓶に完全に目が眩んでしまった。

 

先日頂いた銀杏を煎り、ハンマーでカチカチと割る。エメラルドグリーンの艶々と光る実を4つずつ楊枝に刺して塩を振った。時すでに23時。

 

やめたやめた。「20時以降は食べないことにしていますから」なんて、私はいつからそんなつまらない人間に成り下がってしまったのか。考えてみれば美味しい頂きものをくださった先方にとても失礼な話じゃないか。

 

そうしてその日から毎晩、いそいそと銀杏を煎り、久しぶりの久保田をうっとりと味わった。

 

数日後、一升瓶が空になった頃にはすっかり還俗していたのだった。

 

現在。

 

私がチビデブおばさんでチビデブおばさんが私で。

 

という状況である。

 

もはや私もチビデブおばさんも存在しない。

なぜなら2人はひとつになったから。

 

平和的共存という出口に私たちは立ち、そして融合した。勝利も敗北もない世界観。

 

心ならずも盛り上がった闘争と悟りの日々の中で気づいたことがある。チビデブおばさんの存在理由だ。

 

彼女が私の中に誕生したこの1年で、私は顕著に正義感が強く、図々しく、細かいことが気にならなくなった(詳細はチビデブおばさんの軌跡カテゴリー)。

 

これまで、この性格は元の私とは相容れないものだと思っていた。

けれど最近、どうやら反抗期のムスコに対峙するにはこのくらいが丁度良いということがわかってきた。いちいち傷つき凹んでいると子供が育たない。

 

また、心身ともにいよいよ老化一直線。何事につけ、気にし過ぎるのが1番いけない。

 

それからこんなこともあった。

先日、家族そろって体調を崩した。

リクエストにより、ひたすら湯気の立つ料理を作るはめになった。おかゆを炊いたりウドンを煮込んだり、である。

 

この手の料理を食べる時というのは体が弱っている時である。そんな料理を作る時に絵になるのは、ある程度の、なんというか余裕のある体つきではないだろうか。

弱っている人間が食べるモノであるからこそ、パワーをお裾分けできるくらいの雰囲気が望ましい。

 

また、自分自身が体調を崩して食べられない時にも備えあれば憂いなし。復旧力が衰えているのだから、備蓄に力を入れることはとても大事である。

 

若い頃と違い、有事の際の瞬発力や適応力がない。別の形でエネルギーを温存し、余力を保ちたい。

 

そんなわけで中高年は、どちらかと言えば、痩せていくよりは太っていく方が健康へのチャンスがある。

腹囲さえキープ出来たら体重増加はむしろ喜ばしいことなのだった。

 

運動が日常に定着した結果、若い頃のプラス2キロくらいで落ち着いている。

 

もうこれでいい。

 

ゆるんでたるんで、若い頃より体重は増えたままだけれど、どうやらこれが現在の私のベスト体重なのだろう。

 

2キロの増量分は、加齢と共にほんの少しだけ広がった知見、それによって得た優しさとか、諦めた分だけ得た余力などが詰まった、必然の結果かもしれない。

 

なんやかんやで年末。私はこうしてチビデブおばさんのライフスタンスを認め、助け合って共に生きていくことにしたのだった。

断食で食い意地とサヨウナラ

食い意地が張っていたのは昔からだった。


朝は食欲がないの…と呟きそうな、竹久夢二の描く細身で雰囲気のある女性に憧れていた。


そんな私が、朝ごはんを食べないという取り組みを始めて半月余りが過ぎた。


きっかけはチビデブおばさん。


なんとか痩せて、彼女におなかから出て行ってもらいたい。体重計にはいつだって、慣れ親しんだ数字を表示してもらいたい。


試行錯誤を繰り返す中で、自分は"一度食べ始めたら最後、腹八分目に抑える理性を持っていない"という事実に遅まきながら気がついた。


それくらいなら、明確に時間で区切った方がうまくコントロールできるのではないだろうか。


摂取→消化吸収→排出の3ステップだから、1日を3分割して、公平に8時間ごとのお当番制にしてみたらどうだろう。


摂取12時〜20時、消化吸収20時〜4時、排出4時〜12時。基本的にこの枠に収まるように生活する。排出タイムの午前中は、具なし汁物を含めた水分のみ。摂取時間は制約一切ナシ。


そう考えた。


自分で考えたはずが、結果的に、前から興味はあったものの自分には到底無理だと思っていた"朝断食"っぽくなったのだった。


最初の3日間は不安で仕方なかった。


ー今もしも突然死んでしまったら、心残りで成仏できないのではないだろうか。


ーおなかが空き過ぎて、道端でフラついて倒れてしまわないだろうか。


ー人と話す時、空腹のあまり失礼な態度をとってしまわないだろうか。


そんな思いが頭を駆け巡り、タイムリミットの20時ギリギリまで食べまくる。


空腹に耐えて昼の12時を迎えると、解禁だとばかりに血糖値などおかまいなしに食べまくる。


その後も夜の8時までスキあらば食べまくる。


そんな生活を送ること3日間。


体重は全く変わらなかった。


当たり前だ。8時間でいつも以上に食べていたのだから逆に太ってもおかしくなかった。


でもその時は途方に暮れた。


ー(プチ)断食までして痩せられないなんて。一体どうしたらいいんだろう。


それでも続けていたところ、1週間を過ぎたあたりから、体重を減らすことしか頭になかった私にとって、思いもよらない変化が起き始めた。


ー頭がスッキリとしている。


空腹を感じながらも、頭はなんというか、いつもより澄んでいる感じ。脳のスペースに余裕があるというか冷静でいられるというか。


ー味覚が鋭くなる。


舌の上で、味の粒がプチプチと割れ、そこから深い味わいが滲み出てくるような感覚。
いつもの食事が謎にランクアップし、米の一粒一粒がなぜか美味しい。
味わって食べるせいか、前より少ない量で満足できるようになった。


ー気持ちに余裕が生まれる。


体も問題なく元気なのだから、そんなに慌てて食べなくても大丈夫だと思えるようになった。
その結果、食べて良い時間が来てもドカ食いをしなくなった。

食に振り回されない、自己コントロールできているという感じが自信となり、結果として、漠然とした不安感が減るのと同時に気持ちの安定にもつながった。


そんないくつかの変化があった。


加えて深い気づきがあった。


今、自分の家でゆっくり食事が摂れることのありがたさ、


そもそも食べないでみる、などということを試みられる状況、


私の大切な飼い猫と同じ、私や息子とも同じ、かけがえのない命を食べているという事実の重さ、


まさに今この時、食事の叶わない人がいる。お腹を空かせた子供達が大勢いる。そういう現実があるのに何もしていない自分。


そうした、いつも頭に浮かんでいることがいつも以上に深く感じられて、グサグサと刺さるようにストレートに腑に落ちてきた。


ほんの2週間あまり、しかも午前中に食べることをやめただけ。それだけなのに一体どうしてこんな感情が湧き起こるんだろう。


不思議に思った。そして気づいた。


断食と言えば宗教じゃないか。


さまざまな宗教で断食行為が取り入れられているのって、こういう気づきを体感で得られるからなのかも。


生きるための、最も根源的な欲求のひとつである食を断つという行為によって、食への感謝、ひいては弱者を労る気持ちや自分の行いを律する気持ちなどを鮮明にする。


もともと食い意地が張っている分、心に大きく影響したのかも。なんちゃってプチ断食でこんなに変化を感じるのなら本格的な断食をしたら悟っちゃうのでは!?


育ち盛りや働き盛りなど、別のタイミングでやっていたら、食い意地がかえってひどくなり健康も損なったかもしれない。


このタイミングで思いついて良かった。これからもゆる〜く、上手に続けていきたい。チビデブおばさんに感謝である。


そんなこんなで体重は少し減ったのだった。


普通に自転車通学だったよ。

「どこの高校に入りたいのか、そろそろお子さんと時間を作って話をしてみてください。」


昨日、塾の面談でそう言われたので、早速聞いてみることにした。


「どこの高校に入りたいの?」


「お母さんはオレにどこの高校に入って欲しいの?」


質問し返された。


(…それはまあ、遠いとお弁当作るのに早起きしなくちゃいけないから近くて、電車代がかからないから自転車通学で、私立よりも安い国立大学に入って欲しいから偏差値がそれなりに高い高校が良いな…)


そう考えて、言った。


「近い方が通うの絶対楽だし、お母さんも安心!自転車は時間を気にしなくて良いからいいよね。あと、頭の良い高校ってやっぱり憧れちゃうかなあ。」


ふーん…と言って、さらに質問してくる。


「お母さんは、高校の時の通学、どうだったの?」


久しぶりの会話に加え、自分のことを聞かれた私は、え?お母さんに興味があるの!?と、舞い上がり、


ーヨシ、ここはしっかり思い出して、役に立つようなお返事をしよう。


そう思って30年以上前の遠い記憶をたぐり寄せたのだった。


7時55分に母に叩き起こされ、8時に布団から這い上がる。身支度を整えながら朝ごはんにかぶりつく。


当時8時15分スタートだったNHK連続テレビ小説の、オープニング曲が流れ始めてしまったらアウト。曲の前なら可能性は、ある。


ヘルメットをかぶり自転車にまたがる。


「発進!」


エンジンを搭載しているかのような勢いで、地面を思い切り蹴って家を飛び出す。


やがて見えてくる仲間たちの姿。もはやレース。挨拶をする余裕はない。皆、必死の形相で自転車を漕いでいる。二つ目の信号に差し掛かる前にトップに出られれば勝機はある。


今更ながら、あの当時、登校中にすれ違った全てのドライバーの皆様に謝りたい。そして、私たちを轢かないでくれて本当にありがとうと伝えたい。そういう運転。


右手を正門にかけ、今にも閉めようとしている先生の姿が見えてくる。間に合うか。間に合え。神様お願い!


キキーッとブレーキをかけながら、バイクさながら体を斜めにして急カーブ。なんとか8時30分ギリギリに門の中に滑り込む。


そのまま、頬を真っ赤にして自転車置き場から下駄箱に向かってダッシュ。階段を2段抜かしで駆け上がる。陸上部の面々が、鮮やかな脚力であっという間に見えなくなる。


階段を上り切ると、教室のドアの前に先生が立っている。ああ。


「おまえら毎日、いいかげんにしろよ」


かわしきれずに出席簿の角でコーンと頭を叩かれる。あまりの痛さにうずくまる。


良い音が鳴った頭はジンジンするけれど、なんとか遅刻は見逃してもらえた。今日もセーフ!


…というのが、地方の女子校に通う私の、高校時代の最もスタンダードな1日の始まりだった。


朝から全力を尽くしていたため、早弁は、あり。全然あり。


2時間目の終わりには早くも空腹に耐えられず、1番後ろの子と席を交換してもらい、教科書を立てて口の中に詰め込んだ。


そんな、ガサツで食い意地の張った女子高生だった私には、ひそかに憧れているクラスメートがいた。


その子が友だちと交わしていた会話を今でも覚えている。


「朝から食欲なんてある?コーヒーが精一杯だよ。」


ーコーヒーって、高校生も飲んでいいんだ…。

 
私とあの子はクラスメートだったけれど、他の星に住む女子高生くらいに違った。大人びた彼女と私にはそのくらい距離があった。


彼女は今、どうしているだろう…


そんなことをつらつらと思い出した。参考になりそうなエピソードがひとつもないことに愕然としつつ、


「お母さんは、普通に自転車通学だったよ。」


とだけ答えた。


それにしても高校生って恐ろしい。あれから四半世紀もとうに過ぎた今、もしも同じ道のりを自転車で走ったら30分あっても全然足りない。


憧れのクラスメートは、卒業後に女優になって数年間活動していた。名前を検索すると、今でも古い映画が1本出てくる。

おなかのなかにはなにがある

子育て啓発ダイエット。


"啓発"は自己啓発のことだけれど、"啓発"だけの方が語呂が良いのでそうしている。


この3ジャンルは、本屋さんに行くと、星の数ほどのハウツー本が棚を占拠し、うずたかく平積みされている、と私が信じているBIG3


共通しているのは、


新刊本には事欠かない。


わかりやすい流行がある。


真っ向からバチバチに対立する、正反対のノウハウ、説を提唱する本がある。


一流大学、教授をはじめとする、箔のある権威の名前が表紙や帯を飾っていることが多い。


このことが何を意味するのか。


正解はひとつじゃない、ということを意味するのだろうなと思っている。


人間は1人1人違うのだから、万人に効くやり方なんて存在しません。


そういうことでしょうよ、と。


子育てにしろダイエットにしろ、その道のプロや研究者である著者の皆さんが「こうするといいよ〜」と教えてくれるアドバイスを享受しながら、やはり作戦は自分で立てなければならない。


大丈夫。たとえうまくいかなくても、そのたびに試行錯誤していけば良いのだから。


というわけで、前置きが長くなりましたが、ただ今私は、おなかの中で威張り散らかしているチビデブおばさんを追い出すための試行錯誤を繰り返している。


太めのおばさんがおなかの中に入ってしまった場合について書かれたダイエット本はなく、完全に手探り状態で進めている。


そもそも


摂取→消化吸収→(要らないゴミを)排出


の3ステップを日々こなしている私。


この工程を工場に例えると、


搬入→作業及び製品化→(要らないゴミを)廃棄


といった感じでしょうか。


これでいくと、工場の搬入口のシャッターが人間の"口"ということになる。


口にモノを入れた後は、"おなか"が言わばオートで動いてくれている。


シャッターを開け、適当に持ってきた部品を搬入さえすれば


「あとは現場がなんとかしてくれるでしょ!」


と、捨て台詞を残して引きあげたとしても搬入は搬入。


一方で、搬入後の現場、工場はその時どんな感じなのだろうか。


やみくもに搬入されたあげく、すべての後始末を押し付けてられて怒り爆発、ということにはなってないだろうか。


「搬入がテキトー過ぎてやってられない」


なんといっても本体と同様、現場の作業員たちも高齢化を迎えているのだ。


作業量も作業内容も負荷が大き過ぎる。


飛び込みで不意にやって来る想定外の案件も多過ぎる。気が休まらないし作業に集中できない。


不平不満が募っている。


そうして、いよいよ重過ぎる空気が現場に漂い始めた頃合いで、"彼女"は姿を現したのではないだろうか。


ーチビデブおばさん。


物陰から遠巻きにじっと工場の様子を窺っていた。


最初は少しだけ視線を合わせ、かすかに微笑む。


そのうち、皆の警戒心が薄れてきたタイミングで内部に侵入。
休憩室に入り込み、勝手に茶を入れている。


疲れて休憩所に入ってくる作業員にお茶を出し、さりげなく隣に座って、訳知り顔で愚痴を聞く。


「…わかるわよ」


「…キツいわよね」


などと沁みるセリフを深い相槌とともに返し、最後にポツリと囁く。


「もうやめちゃったら?」


「アンタたちばっかりマジメに働いてるの、私、もう見てられないのよ」


そうして、こう言ったに違いない。


「あそこに積んどきゃいいのよ」


「空いてる場所があるじゃない。あそこに詰め込んどきゃいいのよ。場所がなくなったらね、無理やり押し込んでごらん。広がるのよココ。そういう風に出来てんのよ」


疲れた作業員たちは、最初こそ真面目に、


「そりゃいくらなんでもマズイだろう」


「そんなのすぐにバレるに決まってるよ」


などとざわついていたが、何しろ体がしんどい。


そのうちまんまとチビデブおばさんの企みに乗って仕事をサボりだす。


未許可のバックヤードは広がり続け、もはや最初の広さがどのくらいだったのか誰にもわからない。


この時バックヤードにされている空間こそが、下っ腹とお尻である。そこばかりが集中して太っていく原因はまさにそういうことであった。


そう気づいて以来、私は彼らに「おなかまわり及びお尻の下に空きスペースはありません」ということを断固として伝える活動を始めている。


目下、背中とおなかの一本化に腐心している。本来ここは体幹。固い絆でギュッと一致団結した、太くてしなやかな一本の幹であって欲しい。


ここに在庫を保管してはいけない、ここをバックヤードとして使うのは厳禁であるということを、おなかとお尻に全力で圧をかけて知らしめている。


ギュウッと凹ませて、スペースがないことを繰り返しアピール。


同時に"筋肉"という壁を作る。厚く、硬い壁にして、簡単には広がらないようにしたらどうだろうか。


腹筋背筋ヒップアップ。トレーニングによって硬くすればバックヤードに使えなくなるはずである。


そんなわけで最近やたらと姿勢良く歩いている私。


だがその一方で、頂き物のティラミスを工場に搬入する手が止まらない。


これではいずれストライキが起きるのは確実だろう。


彼らの心を取り戻し、工場のニコニコ経営に向けて、メスを入れるべきはやはり搬入なのだよね。


先生を励ましたかった私。

友だちからもらってきた風邪を息子が律儀に分けてきた。


3日前から2人でダミ声だ。


敵は喉を集中していじめたいタイプらしく、この親子の喉を滅多刺しにしてやれ、と思っている。


とっくに降参しているのに許してくれず、うがい薬で必死の抵抗を試みている。


喋ると喉が痛い。けれど学校に欠席の連絡をしなければ。


昨年までは入力送信するシステムだったのが、なぜか電話に戻っている。


かけなれない中学校の電話番号をググり、電話をする。


本日、欠席連絡3日目の朝である。


一昨日、昨日と教頭先生が2回連続で出てくださった。


呑気な雰囲気で「はいは〜い、お大事にしてね」と、中性的にな受け答えをして頂いて、戦いに疲れた心が少し癒された。


今日もおそらく教頭が電話に出てくれるだろう。


そう思って待っていたところ、電話に出てくださったのはタムラ先生であった。


タムラ先生は息子の隣のクラスを受け持っている2年目の体育教師で、若い女の先生である。


先日、PTAのお手伝いで学校に行った時、ちょうどタムラ先生の授業を受けるため校庭に向かう男子の集団と、下駄箱の前で出くわした。


皆、口々に


「あー、体育うぜ。タムラ、マジ超最悪、マジだりい。もう勘弁して。なんなのアレ。」


などと、あどけない面影をたっぷりと残した顔でひどいことを言っている。この子たちには見覚えがある。息子の友だちだ。


「タムラはマジで、どこにセンスを置いてきちゃったんだよ。あのダンスは一体なんなんだよもう!」


そう言えば、中学2年生の体育の単元は確か「ダンス」で、息子も先日オクラホマダンスをやらされて、背が低いので女役にされたことを大変根に持っていた。


その日はどうやら創作ダンスの授業らしく、まずは先生が考えたお手本の踊りをみんなで踊るらしい。移動しているのは男子だけ。女子は体育館で別メニューなのだろうか、姿が見えない。


せっかくだからそのダンス、是非見たい。


PTA室の窓から校庭の様子を窺っていると、やがて授業が始まった。


風向きが味方して、2階なのに時々声が聞こえてくる。


先生が、前に立って何やら指示を出している。


それから1人、みんなの前で踊り出した。みんなはそれをただ見つめている。


「ちょっと!!ほら〜、私だけにやらせないでよ!こっちだって恥ずかしいんだからね!」


「恥ずかしいならもうちょっと恥ずかしくないダンスにしてよ」


「そもそもコレ考えたの先生だし」


言い合いが続き、みんなまったく踊らない。


(コラコラ君たち、これは授業だ。さっさと踊りたまえ…)


内心そう思いながら若くて元気いっぱいな先生が繰り出す踊りに注目する。


確かに先生が考えたそのダンスは、誰かアドバイスをしてくれる同僚はいなかったのだろうかという振り付けであった。


時折、◯◯ジャー!的な決めポーズが挟み込まれたかと思ったら、次はジャンボリミッキーにしか見えない振り付け。


コレを反抗期真っ只中の中2男子に全力で踊ってもらえる2年目の教師がいたら、それはもう踊りの神だろう。


逆に保育園であれば、この振り付けは大喜びかもしれないな…と、つい遠い目をしてしまった。


わかるよ先生。今、みんなの前でたった1人で踊っている先生の気持ちが、私には痛い程よくわかる…。


このダンスが中2男子に受け入れてもらえないように、2歳の男の子たちはキューピーちゃん体操を全然受け入れてくれなかった。


キューピーちゃん体操は振り付けが決まっているから、◯◯ジャー的なヤツもミッキーっぽいヤツも、勝手に入れちゃいけなかった。


発表会当日、全力で前に立って踊ったけど男子は誰もついてきてくれなかった。ステージを縦横無尽に走り回ってたっけ…。


でもあの時は女子がいた。ココちゃんもヒロナちゃんも、燃える目で私を見つめ、すぐそばで全力で踊ってくれた。


あまつさえ走り回る男子どもに、


「リョウタくん、ソウちゃん、はしらないよ!」


などと真剣に怒ってくれた。


私も今すぐ先生の隣に駆けつけて、そのキテレツな振り付けを全力で一緒に踊ってあげたい。心からそう思った。


しかしそんなことが息子の耳に入ったら、卒業まで確実に口を聞いてもらえなくなってしまうだろう。


(先生、頑張って!ここに味方がいますよ!)


心でエールを送ったのだった。


だから先生が電話に出た時、


「先生、大変だけどとにかく頑張って!」


と伝えたかったけれど、朝一番にとった電話でいきなりダミ声の保護者に励まされたら困惑するだろうと、なんとか思いとどまったのだった。


20年ごとの走り込み。

「なんだこれは。みんなが私を応援している…」


初めて浴びる謎の歓声に、若干の戸惑いと溢れる喜びを胸に抱えて、11才の私は歯を食いしばって懸命にトラックを走った。


小学5年生の夏休み直前のことである。


市の陸上競技会の800メートル走に出場する選手を決めるため、放課後、出席番号順に5人ずつトラックを走らされた。


800メートルはトラック4周。ありえないくらいキツい。どんなに手足をバタつかせてもまるで前に進めなかった平泳ぎよりも嫌いな種目だった。


早く終わらせたい一心だった私は、しょっぱなからフルスロットル、5人グループのトップに躍り出た。


カッコいいトップじゃない。とにかくこの地獄を一刻も早く終わらせるためだけに必死で走った。


でも、あまりにもツラい。トラックを一周しただけであっけなく「もう限界だ…」と思った。ここはもうスピードダウンするしかないな…。


「あれ?右足にちょっと違和感あるかも…」みたいな顔をして最後尾にくだり、ゆっくりと走ることにしよう。


そんな姑息なことを考え始めたちょうどその時。


少年野球をやっていた1学年上の男の子たちが、練習をしにグラウンドにやってきた。


野球少年たちは、当時(私の中で)かなりカッコいい集団だった。


彼らの存在を確認するなり、別人のように復活した私は一転、颯爽とスピードアップした。


すると、


「おお!長島(仮名)速いじゃん!!すげ!」


長島(仮名)は私の姓である。いきなり心の準備もなく名前を出された。


そればかりか、男の子たちはこぞって、


「長島!あと少しだ!行けるぞ!その調子!!」


「イケるイケる!!長島負けんなー!」


などと全員で私の名前を連呼し、応援を始めた。


自分がこんなに有名でモテるということを、その時までこれっぽっちも知らなかった私はとても驚いた。


驚いたが、とにかくこの男の子たちの熱い気持ちを裏切ってはならないと、足がもつれそうになるほど必死で走った。40年経った今でも、あの苦しさは本当に忘れられない。初めてのファンの期待を裏切るわけにはいかなかったのだ。


結果、2位の子と僅差で勝利した。


ゴールした瞬間、歓喜で沸くはずの男の子たちは一様にガッカリとした様子になった。その時初めて、応援されていたのは私との競り合いに僅差で敗れた、私と同じ苗字のケイコちゃんの方であったことを知った。


それを知ったのとほぼ同時に、先生に肩を叩かれた。


「おまえがこんなに頑張ってるとこ、先生初めて見たぞ。たいしたもんだ!感動しちゃったよ!」


先生を感動させた私は、長距離の代表選手に選ばれ、夏休みの間中、地獄の特訓に苦しむ日々を送ったのだった。


ただの勘違いで発揮した馬鹿力なので、それ以降は良いタイムなど出るわけがない。


当然やる気も素質もなく、辛い夏休みの記憶だけが残った。そうして、その夏以降は"走る"という行為とは完全に決別し、走らない平和な日々を送っていた。


ところが突如また走る羽目になったのは、嫁に行き遅れた30才を過ぎてからのことである。


当時の結婚適齢期である27才前後、ちょうど姉に子供が生まれて同居することになった。


私はその姪のことを、当時付き合っていた彼の、軽く数万倍愛してしまった。


姪といる時間が何よりも至福、週末は様々な口実をつけて彼との約束を断り、姪のお世話に明け暮れた。


そうしているうちに当たり前に破局


むしろ姪に没頭できることになり、何の危機感も持たずに幸せに生活している私に対する家族、特に母と祖母の苦悩と焦燥は、日を追うごとに増していった。


マッチングアプリなどもない時代、当時、田舎の職場にも、その界隈にも、恋愛が生まれる要素はこれっぽっちもなかった。


そんな頃、友人のツテで今の主人と知り合った。


正直に言って、打算は、働いた。この人ならば母が納得するだろう。とにかく一度嫁に行きさえすれば、とりあえず納得するはず。安心したら最後、そのあとはどうなろうと良い。離婚、という手もある。


そんな、打算のカタマリと化した私は、めでたくお付き合いまでコトを進めた。


そこでネックになったのが彼の趣味だった。


生粋のオタクの姉が支配する環境で育った私はそこそこのオタク。なのに彼の趣味はスポーツとスポーツ観戦だった。


ある日、ジョギングに誘われた。


ここで断ったらこのお付き合いも終わりだ。私の直感がそう告げている。ここで終わるとまた振り出しに戻る。振り出しは"出会い"。そんなところまで戻ってやり直すなんて考えただけで途方に暮れて倒れてしまいそう…。


走ろう。それしかない。


かくして再び走ることになったのだった。


走り始めた最初の頃は、50メートルも走れば脇腹が痛くなり、もう1メートルも進めません…という状況だった。


これでは振り出しの"出会い"に戻ってしまう。いやだいやだ、せっかく7マスくらい進んだのだ。戻るのはゴメンだ。


そう思った私は、1人、自主練に取り組んだ。
仕事終わりに毎晩走った。


走り始めて割とすぐ、体に変化が起きた。


体の表面、特に太ももが痒くてたまらなくなる。


ずっと使っていなかった、表面を這う毛細血管に血が通い始めたらしい。ムズムズソワソワする。


それから肺。こちらも、今までの容量では足りないと体が認識したらしく、深呼吸をするごとに、まるで肺が大きくなっていくような、そんな感覚を覚えた。


気づいたら、1人で走ることに何とも言えない爽快感を感じるようになっていた。


月200キロを超えて走り込むようになった頃には結婚を手に入れていた。


当時、病に臥せっていた祖母に結婚を報告すると、


「待てば海路の日和あり」


と一言言い、寝ている目からは涙が一筋こぼれた。


大義は果たした。そう思った。


結婚し、国内のハーフマラソンにいくつか参加した後、マウイ島のフルマラソンに参加した。


フルマラソンはさすがにキツく、終わった瞬間に満足した。「完」の文字が頭に浮かんだ。そこからは食べて食べて、とにかく食べまくった。


そうして、走る体型じゃなくなった。


あれから20年。


50才を過ぎ、今回、チビデブおばさんを追い出すため、再び真面目に走り始めた。


最初の数週間は、20年前と違って、走ってもただただ疲れるだけ、顔がやつれるだけだった。


しかし、諦めた頃に再びあの感覚が訪れた。太ももの表面が痒くなり、肺が深呼吸を求めてくる、あの感覚。


体がやっとこさ、目覚めてくれたのかもしれない。


その感覚を得た頃から徐々にまた、走ることで爽快感を得られるようになった。


1時間捻出できたら、10キロ弱程度を走るニコニコペースで続けている。


20年前と違い、今は走れることがありがたい。


腰痛、膝痛、神経痛がいつ襲ってくるか分からない。50才を越えた身体はデリケートなのだ。


過去2回の走り込みの頃とは違い、今回は走れる喜びと感謝がある。


ただ。


体重が減らない。敵は見かけ通りのしぶとさを見せている。


これ以上重い体のまま調子に乗って走り続けたら、体のどこかしらが悲鳴をあげるのは時間の問題だ。


やはり先ずはアイツを追い出さなければ。


このまま楽しい年末に突入してしまったら、来年の正月には新生チビデブおばさんが誕生しており、その時すでに私はいないだろう。


チビデブおばさんの笑い声が脳内にこだまして、焦りがつのる今日この頃なのだった。