「なんだこれは。みんなが私を応援している…」
初めて浴びる謎の歓声に、若干の戸惑いと溢れる喜びを胸に抱えて、11才の私は歯を食いしばって懸命にトラックを走った。
小学5年生の夏休み直前のことである。
市の陸上競技会の800メートル走に出場する選手を決めるため、放課後、出席番号順に5人ずつトラックを走らされた。
800メートルはトラック4周。ありえないくらいキツい。どんなに手足をバタつかせてもまるで前に進めなかった平泳ぎよりも嫌いな種目だった。
早く終わらせたい一心だった私は、しょっぱなからフルスロットル、5人グループのトップに躍り出た。
カッコいいトップじゃない。とにかくこの地獄を一刻も早く終わらせるためだけに必死で走った。
でも、あまりにもツラい。トラックを一周しただけであっけなく「もう限界だ…」と思った。ここはもうスピードダウンするしかないな…。
「あれ?右足にちょっと違和感あるかも…」みたいな顔をして最後尾にくだり、ゆっくりと走ることにしよう。
そんな姑息なことを考え始めたちょうどその時。
少年野球をやっていた1学年上の男の子たちが、練習をしにグラウンドにやってきた。
野球少年たちは、当時(私の中で)かなりカッコいい集団だった。
彼らの存在を確認するなり、別人のように復活した私は一転、颯爽とスピードアップした。
すると、
「おお!長島(仮名)速いじゃん!!すげ!」
長島(仮名)は私の姓である。いきなり心の準備もなく名前を出された。
そればかりか、男の子たちはこぞって、
「長島!あと少しだ!行けるぞ!その調子!!」
「イケるイケる!!長島負けんなー!」
などと全員で私の名前を連呼し、応援を始めた。
自分がこんなに有名でモテるということを、その時までこれっぽっちも知らなかった私はとても驚いた。
驚いたが、とにかくこの男の子たちの熱い気持ちを裏切ってはならないと、足がもつれそうになるほど必死で走った。40年経った今でも、あの苦しさは本当に忘れられない。初めてのファンの期待を裏切るわけにはいかなかったのだ。
結果、2位の子と僅差で勝利した。
ゴールした瞬間、歓喜で沸くはずの男の子たちは一様にガッカリとした様子になった。その時初めて、応援されていたのは私との競り合いに僅差で敗れた、私と同じ苗字のケイコちゃんの方であったことを知った。
それを知ったのとほぼ同時に、先生に肩を叩かれた。
「おまえがこんなに頑張ってるとこ、先生初めて見たぞ。たいしたもんだ!感動しちゃったよ!」
先生を感動させた私は、長距離の代表選手に選ばれ、夏休みの間中、地獄の特訓に苦しむ日々を送ったのだった。
ただの勘違いで発揮した馬鹿力なので、それ以降は良いタイムなど出るわけがない。
当然やる気も素質もなく、辛い夏休みの記憶だけが残った。そうして、その夏以降は"走る"という行為とは完全に決別し、走らない平和な日々を送っていた。
ところが突如また走る羽目になったのは、嫁に行き遅れた30才を過ぎてからのことである。
当時の結婚適齢期である27才前後、ちょうど姉に子供が生まれて同居することになった。
私はその姪のことを、当時付き合っていた彼の、軽く数万倍愛してしまった。
姪といる時間が何よりも至福、週末は様々な口実をつけて彼との約束を断り、姪のお世話に明け暮れた。
そうしているうちに当たり前に破局。
むしろ姪に没頭できることになり、何の危機感も持たずに幸せに生活している私に対する家族、特に母と祖母の苦悩と焦燥は、日を追うごとに増していった。
マッチングアプリなどもない時代、当時、田舎の職場にも、その界隈にも、恋愛が生まれる要素はこれっぽっちもなかった。
そんな頃、友人のツテで今の主人と知り合った。
正直に言って、打算は、働いた。この人ならば母が納得するだろう。とにかく一度嫁に行きさえすれば、とりあえず納得するはず。安心したら最後、そのあとはどうなろうと良い。離婚、という手もある。
そんな、打算のカタマリと化した私は、めでたくお付き合いまでコトを進めた。
そこでネックになったのが彼の趣味だった。
生粋のオタクの姉が支配する環境で育った私はそこそこのオタク。なのに彼の趣味はスポーツとスポーツ観戦だった。
ある日、ジョギングに誘われた。
ここで断ったらこのお付き合いも終わりだ。私の直感がそう告げている。ここで終わるとまた振り出しに戻る。振り出しは"出会い"。そんなところまで戻ってやり直すなんて考えただけで途方に暮れて倒れてしまいそう…。
走ろう。それしかない。
かくして再び走ることになったのだった。
走り始めた最初の頃は、50メートルも走れば脇腹が痛くなり、もう1メートルも進めません…という状況だった。
これでは振り出しの"出会い"に戻ってしまう。いやだいやだ、せっかく7マスくらい進んだのだ。戻るのはゴメンだ。
そう思った私は、1人、自主練に取り組んだ。
仕事終わりに毎晩走った。
走り始めて割とすぐ、体に変化が起きた。
体の表面、特に太ももが痒くてたまらなくなる。
ずっと使っていなかった、表面を這う毛細血管に血が通い始めたらしい。ムズムズソワソワする。
それから肺。こちらも、今までの容量では足りないと体が認識したらしく、深呼吸をするごとに、まるで肺が大きくなっていくような、そんな感覚を覚えた。
気づいたら、1人で走ることに何とも言えない爽快感を感じるようになっていた。
月200キロを超えて走り込むようになった頃には結婚を手に入れていた。
当時、病に臥せっていた祖母に結婚を報告すると、
「待てば海路の日和あり」
と一言言い、寝ている目からは涙が一筋こぼれた。
大義は果たした。そう思った。
結婚し、国内のハーフマラソンにいくつか参加した後、マウイ島のフルマラソンに参加した。
フルマラソンはさすがにキツく、終わった瞬間に満足した。「完」の文字が頭に浮かんだ。そこからは食べて食べて、とにかく食べまくった。
そうして、走る体型じゃなくなった。
あれから20年。
50才を過ぎ、今回、チビデブおばさんを追い出すため、再び真面目に走り始めた。
最初の数週間は、20年前と違って、走ってもただただ疲れるだけ、顔がやつれるだけだった。
しかし、諦めた頃に再びあの感覚が訪れた。太ももの表面が痒くなり、肺が深呼吸を求めてくる、あの感覚。
体がやっとこさ、目覚めてくれたのかもしれない。
その感覚を得た頃から徐々にまた、走ることで爽快感を得られるようになった。
1時間捻出できたら、10キロ弱程度を走るニコニコペースで続けている。
20年前と違い、今は走れることがありがたい。
腰痛、膝痛、神経痛がいつ襲ってくるか分からない。50才を越えた身体はデリケートなのだ。
過去2回の走り込みの頃とは違い、今回は走れる喜びと感謝がある。
ただ。
体重が減らない。敵は見かけ通りのしぶとさを見せている。
これ以上重い体のまま調子に乗って走り続けたら、体のどこかしらが悲鳴をあげるのは時間の問題だ。
やはり先ずはアイツを追い出さなければ。
このまま楽しい年末に突入してしまったら、来年の正月には新生チビデブおばさんが誕生しており、その時すでに私はいないだろう。
チビデブおばさんの笑い声が脳内にこだまして、焦りがつのる今日この頃なのだった。