onoesanと猫と保育となんやかんや。

〜おいぼれ猫たちとの日々と、あれやこれや〜

保育園で。保育園にいるのは大体つまめるタイプの女だという話。

私はつまめる。

長年、私は自分のことを
「つまめるタイプの女」だなと思っており、主人と結婚して初めて「つまめない男」が存在するんだということを知った。

小さな頃からはっきりと、つまめる女とつまめない女は存在していたが、つまめない男なんて子どもの頃には存在していた記憶がない。
特に大人の男は絶対に「かっこよくつまめる」ものだと祖父や父を見て、そう信じていた。

そして最近、保育園で働き始めて
「この業界はまれにみる"つまめる女"だらけだな…」
と感じた。
つまめない女は、どこでも堂々と、私はつまめない宣言をして安穏に暮らしているかと思っていたが、ここではつまめない女は非常に肩身が狭く、まるで、私は人間失格ですとでもいうように恐縮している。
だから保育園で、
「私、本当はつまめないんです…」
といった類の告白を、切なげな表情でされると、私はもう彼女たちのために命ある限りつまもうと固く決意するのだ。
とは言え保育園で「つまめない女」のままでいることは出来ず、いずれは皆、つまめる女になるのだが。

ところでつまめる女にも2種類いる。
先天的なつまめる女と後天的なつまめる女。

前者は私のように、つまむことに対し最初から少しの抵抗もないが、後者は大抵の場合、つままねばならぬ状況に追い込まれて、悲鳴をあげたい気持ちを必死でこらえながら、自己犠牲の精神で"つまむ"ことを繰り返した、まさしく汗と努力の結果"つまめる女"になった尊い人たちである。その努力は並大抵ではなかっただろう。

対して主人は、元は"つまめる子ども"であったらしい。
それが数十年つままなかったことで本来獲得していた能力を失ったようだ。
つまむことを回避するために、手の代わりとしてペットボトルを用いることにしている主人だが、専用のペットボトルがあることに私は大変腹を立てている。
それはつまめる女である私にとって、完全に不用品であるから、マイブームの断捨離の中で最高に断捨離せねばならぬものだからだ。

ちなみに"つまめる女"は多くの場合、アレをスリッパや新聞紙で"つぶせる女"でもあると思って差し支えないし、その逆もしかりだ。

男については観察対象が少ないため未だ判然としていないが、主人もまた"つまめない男"であると同時に"つぶせない男"である。
つぶさないために食器用洗剤を半分もふりかけて私に百回くらい舌打ちされたことがある。

さらに付け加えるとウチの雌猫もネコでありながら、捕まえられないネコである。
一度、そばを通過したクモを、絶対に触らなくて済む距離であることを確認した上で、前脚をそれらしくクモの近くにエイッという雰囲気を出しながら置いているのを見てしまった。

その時のネコの表情は忘れられない。
目を合わせてしまい申し訳なかった。

我が家の家人は、人間もネコもこんな感じなので、多数決の力により私が異端のように思われている。つくづく納得がいかない話なのだった。