番台のオジサンの話。

今朝、何気なくテレビを点けたところ、物価高の影響で銭湯の料金が上がるかもしれないというニュースをやっていた。


今は、1回500円なのだそうだ。


あー、物価ってやっぱりエゲツなく上がっている。

客はもとより、経営者はさぞかし大変な思いをしていることだろう。


私が銭湯に通っていた時代は300円もしなかったのに。


当時はそれでも高いと思っていた。


銭湯はたまに行く特別な場所ではなく、日々の生活のための場所だった。


ゆっくり入った後、洗面器を抱えてのんびり歩いて帰る時の風の気持ち良さったらなかった。


住んでいた物件は、風呂なし、トイレ共同、キッチン…というよりは、ただの"流し"付きの4畳半。


かろうじてガスの引き込み線があったので、ガス台を買ってきて乗せたら、流しにはもう何も置けなかった。


築年数はわからないけれど、地震が来たら全倒壊必至な物件だった。


売りは「駅まで徒歩30秒」


バス停に毛が生えたような都電荒川線チンチン電車の駅、というのが「駅から30秒」のカラクリである。


連絡手段は、最も近いところで家から5分のところにある公衆電話だった。


もちろんこれは正当な手段を使った場合で、緊急の場合には、隣の大家さんの家に駆け込むという方法もとれたと思う。


幸い緊急事態は起こらなかった。


上京して大学の授業が始まるまでの1週間、公衆電話に使える余分なお金もなく、今と違って知らない人と話すことも出来なかった。


その当時の心細さが、「銭湯」という言葉ひとつで一気によみがえってきた。


通っていた銭湯までは徒歩3分だった。


世間知らずの女子校育ちだったので、銭湯に行くにも大変な勇気がいった。


それでも意を決して乗り込んだら、番台に座っていたのはオジサンだった。


オジイサンでなく、オジサン。


尻尾を巻いて故郷に逃げ帰りたかった。


でも大切なお金を払い終えて、入らないわけにはいかず、1番隅の、最も目立たなそうな場所で急いで着脱した。


風呂から出たらもう、ビショビショのまま服を着て、全速力で帰った。


それが最初の3日間。


3日の間にオジサンが番台のプロだとわかってきた。


常に半眼。
目線は床から客の膝程度。


客から受け取ったお金以外は、すべてボヤけて見えるように目を調節しているのがわかった。


みだりに目玉を動かすようなマネは決してしない。


悟りを開いたお釈迦さまのように、ひたすら世界の平和を祈っているような風情だった。


だからみんな、安心して脱いでいた。


夜の街のお姉さまたちは、鏡に映った自分の全裸を、様々な角度から見てウットリとしていたし、ボディービルダーに間違いないだろう女性は、鏡の前で全裸でポージングしたりしていた。


そんな、同性が見ても刺激的で目が離せないシーンを、見晴らしの良い番台に座りながら完璧に受け流していた。


おかげで一週間も経った頃には、これっぽっちも恥ずかしさを感じずにくつろげるようになったのだった。


大学の授業が始まってチラホラと顔見知りができるまでの間、私が顔を見知った相手は、80才の大家のオジイサンと、その番台のオジサンだけ。

地味で孤独な一人暮らしのスタートだった。


あのオジサンがお元気ならば、いよいよ番台に座るのにふさわしい外見も手に入れているはずだ。


しかし、既にその銭湯は地図から消えていたし、残っていたとしても、もう番台システムは日本のどこにも残っていないだろう。


懐かしく思い出したのだった。