魅惑の香りがするネコ缶を食べたい一心で、死の淵から這い上がった老猫ソルは、この半月で2.6キロから3.2キロにまで増量したことが判明した。
抗生剤のおかげで膀胱炎も治まったようである。
先生は、診察台の上にいる馴染みの古株患者を見つめ、
「うん、いいですね…うん、うん、いいですね、いいですね…」
と、何度も頷きながら触診した。
完治の難しい病気をいくつも抱えている状態だから、近いうちに大きく急変することは避けられないし、それは今夜かもしれない。
しかし今は、美味しいものを食べてグースカ寝て、腹が減ったらデカい声で呼ぶ。
なんていうか、患者の鏡だ。
これっぽっちも思い煩わない。先行きを悲観したりしない。機嫌も悪くならなければ愚痴もこぼさない。
今彼がするべき最善のことを、不満もない様子でしている。
(まあ、いつもと同じことをしている。要するに寝ている。)
シンプルって素晴らしい。シンプルは強いのだ。
状況は結構深刻なのだが堂々と落ち着いており、献上された様々な猫缶を偉そうに首を捻りながら試食している。
そりゃ猫なんだから当たり前だろって話なんだけれど、でも猫って人間以上の能力をたくさん持っているわけで。
ひょっとしたら人間のような能力を持って、限られた時間を意識しながらあくせくと生きるよりも、そんな人間が作った環境にうまい具合に入り込んだコッチの生き方の方がワンチャン美味しくね?って、そう考えて、人間のような生き方を捨てた可能性だって否定できない。
2匹の悠然とした寝顔が、とても怪しい。
人類が危険な時代を生き延びることができた理由に、ネガティブな記憶をより強固に脳にとどめたり、そうした経験から危険を予測する(心配する)ことが出来たからとよく言われるけれど。
ではネコは?
ゴロゴロと寝っ転がって、衣を着ないことを許され、食住を保証されている究極のグースカ野郎は、一体どうしてこのような地位を獲得できたのだろう。
人類は知性と引き換えに、厄介なモノを色々と手にしたのに。
そういう取引ナシで、その立ち位置…ヒトのそばで癒しの存在としてチヤホヤされ、気持ちよさそうに寝ているだけで目を細めて撫でられるっていう奇跡のポジションを、めちゃくちゃしれっと、ちゃっかり獲得してやいませんか?
犬も小型になるにつれ、かなり健闘を見せている。
でも犬は、怒られたらしゅんとなり、飼い主様がいない時の寂しがりようといったら大抵のネコの比ではなく、歳を取って散歩めんどくせえなって思っても、そこは犬として飼い主が連れ立って歩きたいと思えば行かないわけにはいかない。
お仕事をしている犬だっている。
猫界でお仕事しているネコは、まあモデル猫、役者猫、それに猫村さんくらいだろう。
前の2つは周囲が大変なだけだ。
もちろん人生、幸せなことや感動することもたくさんあるが、その一方で、先のことを悶々と悩んだり、孤独感に苛まれたり、他者と比較して苦しんだりといったエンドレスな悩みもたくさんある。
そうしたものに怯えながら労働しているうちに、あっという間に人生の後半戦に突入するパターンというのが現実には結構多いのが最近の人類、と言えなくもない。
そんな人類に、勝手きままなところがいいとか、自由な様子が魅力的とか、もてはやされている。
実は、作戦成功って思っていませんか。
もちろん飼い主は選べないが、ただ本人たちはそこを愚痴りたくなる頭の仕組みを持たない。
それに動物病院の待合室にいる人たちと話していると、皆さま愛情がものすごくて、え〜!?こんな飼い主さんイヤだな…なんて、思ったことが一度もない。(そもそも病院に連れてきてもらっている時点で強運なのだろうけれど)
しかもその愛らしさにノックアウトされた人たちによる、不幸な猫をなくす取り組みが功を奏し、以前よりも環境は改善されつつある。
血もつながっていない彼らに、無償でふんだんな愛を注ぐヒトは多い。
してやったり、という顔をして寝ている我が家のネコを見ていると、そんなことを考えながらもついうっかりと癒されてしまうのだった。