息子がくれたエプロンの話。

日曜日の昼下がり。
リビングにいると、裏のお宅の奥さんの声が聞こえてきた。


裏のお宅の奥さんとは、同世代だけれど挨拶を交わす程度のお付き合い、世間話もしたことのない間柄だ。


でもキッチンが我が家の廊下からほんの数メートルのところにあるから、窓を開ける季節になると話し声がよく聞こえてくる。


「あー。やっぱり八海山はうめえなぁ」


と言う、奥さんの声が2度ほど聞こえてきたのだった。


1度目は、

…奥さん、今、八海山飲んでるんだ。

と思っただけであった。


しかし2度目に聞いた、しみじみと味わっているであろう声にはもう我慢ができなかった。


立ち上がって、冷蔵庫を物色しに行った。


そこでハッと我に返った。


そしてすぐさま、あのエプロンを着けよう…そう思ったのだった。



先々週の母の日。


例年どおり、中2の息子はてっきり日本酒をくれるものだと思っていた。


主人のサポートのもと、母の日にはいつも日本酒をくれる。


今年は獺祭かな、酔鯨かな…お小遣いが上がったからひょっとして両方だったりして!?


本音を言えば、あっという間になくなる高いお酒より、物価高の勢いが止まらない今、2リットルの黄桜の呑の方がありがたい。


しかしそんなことは言えるわけがなかった。


たとえ3日と持たない量であっても、もらったお酒をありがたく、大切にチビチビと頂こう。


そのように心の準備を完璧にして、スーパーで買ってきた特売マグロの柵を眺めていた時である。


「はい。これ」


平たい包みを息子に手渡されたのだった。


…?


いぶかりながら中を開けるとエプロンが入っていた。


エプロン。


小中学生が母の日に送るプレゼント、多分第1位。


エプロン…。


今年はエプロンにして…くれたのか。


顔色を変えてはいけない。


わざわざ買ってきてくれたのだ。


その事実に涙しよう。



本当に、ここ最近の彼の態度からしたら自分でプレゼントを選んで買ってくれたなんて嘘みたいだ。


…一昨日なんて。


塾に行くので早めに晩ご飯を食べる彼のために、帰宅後せかせかと晩御飯を作り、ようやく食卓に並べ終えた。


並んだ皿を前に小声でボソッと

「いただきます…」

と言う彼を見届けて、やれやれと自分も食卓にドサッと腰掛けたその時、彼は私に向かって迷惑そうにこう言い放ったのである。


「前に座るなよ」


…え?今なんて?


聞き返すとため息をつかれた。


あまりの言葉にどう返したら良いのか考えあぐねて口をパクパクさせていると、


「あー、はいはい。もう食べ終わるんでいいっす。」


と言って、30分かかって作った豚の生姜焼き他を3分で食べて出て行ったのだった。


どなたか、あの可愛かった私のムスコをどこかで見かけたら、ウチに帰ってきて欲しいと伝えてください…。


そんなことがあったばかりだったから、わざわざプレゼントを選んでくれたなんて、とても驚いたのだった。


エプロンを取り出す。


中から出てきたのは、ピンクの布地が白いレースで縁取られ、後ろに大きなリボンがついた、コスプレ風な一品であった。


これを、着るのか…。


正直、主人からだったら即メルカリ流しの刑に処したところだ。


しかし、絶賛反抗期中の息子がくれたのである。


ニコニコと着る以外の選択肢があろうはずがない。



着るしかない。



恐怖と戦いながら鏡の前に立ち、恐る恐る当てて見る。



ないな…これはないな…。



そう思ったが、これはない、という選択肢もまたないのだった。ここはとにかく着けてみる一択だ。


で、着けた。ピンクのリボンのフリフリエプロンを。


そうして着けてみてビックリしたのだった。


まさにコスプレ効果!ウキウキと、心弾んでしまった。


なんて素敵な雰囲気のエプロン。


裾がフレアスカートのように広がって、クスクスと笑っているみたい。


こんなエプロンをしたお母さんは、優しく微笑みはするけれど決してガミガミと怒らないだろう。


二日酔いで動けず、台所に匍匐前進で向かうなんてこともない。


そもそも、こんなエプロンを身につけるお母さんが飲むのはハーブティー、ギリギリ緑茶だ。


アルコールは絶対に飲まない。


着けてみてわかった。


これは性格矯正エプロンであり、禁酒エプロンであった。


息子は私に、このエプロンを付けるに足る人物であることを求めているのかもしれない。


そうしてエプロンの存在を思い出した私は、急いで棚から出して着用し、裏の家の奥さんからの誘いを断ることに成功したのだった。


ゴミ出しに行く時にうっかり着けたまま行くことがないように注意が必要だけれど、このエプロンを出来るだけ身につけていようと心に誓ったのだった。