なんやフラれた気分やで。

「言うたら、なんや軽くフラれた気分やで。」

関西出身の友達がそう言うのを、軽く聞き流していた。

このことか。

確かにまるでフラれた時のような気持ちになった。


面談のために中学校に向かう途中で、帰宅途中のムスコとすれ違った。

友達と楽しそうに歩く彼と私の距離が、20メートルあたりまで詰まったところで、一瞬、確実に目が合った。

にも関わらず、そのまますれ違った。
友だちと楽しそうに談笑しながら遠ざかっていく。

ほんの3年、いや2年前には考えられないことが起きた。


「おー。あれ、おまえんちのかあちゃんじゃね?」

「あ!ほんとだ!おまえんちのかあちゃんだ。こっち来るぞ!」

「えー!?あ!ほんとだ、おかあさんだ!!なになに?なんでこんなとこ歩いてんの?どこ行くの?何時に帰ってくる?ランドセル置いてアイス食べたら、友だちと公園遊びに行っても良い?」

ムスコだけではない。

ムスコの友だちもワラワラと寄ってきて、一斉に話しかけてきた。

「え?何?いっぺんに話しかけられたらわかんないよ。待って待って。順番に聞くから…。」


あの、うるさいけれど満更でもない気持ちになった日から、まだたった2年しか経っていない。


こんなフラれ方、納得がいかない。

そもそも付き合ってたわけじゃないけど。

親だし。

なんでこんな気分にならなきゃいけないのか。

歩いているうちに、どんどん腹が立ってきた。

そのまま教室に入り、面談。


今年はなんと言われるのだろう。

家での様子を見ている限り、もはやあの記録を更新することはないだろう。


「穏やかなお子さん」記録。


幼稚園に入園した4才から昨年までの10年間、面談では必ず「穏やかなお子さんです。」と言われた。

周りの空気が不穏になるのが苦手な子だった。

ヨチヨチ歩きの頃から、公園が混んでいる日は人気の遊具には決して近寄らなかった。

自分からベンチに腰掛け、お年寄りと一緒に砂場や滑り台で遊ぶお友達を笑顔で見守っていた。

幼稚園では、お友達がケンカを始めると「完璧なヒトなんて世界中に1人もいないんだから、許さなくっちゃいけないよ。」と言って歩き、お教室をシーンとさせ、驚いた先生がお便りに載せた。

小学校に入学してから付いたあだ名は「おじさん」。

「おじさん」は高学年になると、家では池波正太郎の「真田太平記」や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などを愛読していたが、小学生が間違って読むと大騒ぎになりかねない性的な描写が含まれていると忖度して、学校へは、青い鳥文庫の「真田幸村」や「飛べ!龍馬」を持っていくような、そういう子だった。

平穏な空気を好む、とても「穏やかなお子さん」だった。


それが今では、家庭内に日々不穏な空気を振り撒いている。

更年期のホルモンの枯渇も辛いが、思春期のホルモンの急激な増量もきっと大変なのだろう。

「穏やか」どころではなく、お互い様だが、秒単位で感情が乱高下する日々である。


で、今年はやっぱり「穏やか」とは言われなかった。

ただ、「頼りになる」と言われた。

学校で律儀にかぶっているらしい「頼りになるお面」。

一度家でもかぶって見せてもらいたい。

一体どんな顔なんだろう。

家では最近、「偉そうなお面」ばかりかぶっている。



帰宅後、先ほどの態度を詰め寄ると、

「はぁ?お母さんが先に無視してきたんじゃん。」

と言われてしまった。

「お母さんが無視したから、俺も知らないふりをしたんだよ。」

と。


そうなの?

そうだったの?


少しほっとして、

「なぁんだ。じゃ、今度はすぐに手を振るよ。」

と言ったら間髪入れずに、

「あ、それは絶対にやめて。手を振るとかマジありえないから。こっちに寄ってくるとかナシでよろしく。」

と返された。


やっぱりさっき無視したよね?なんやフラれた気分やで。


次にすれ違ったら、手を振りながら満面の笑顔で寄ってやる。覚えてろよ!と思ったのだった。