フツーの親は「普通」が好きだという話。

44才で保育士資格を取って保育園で働き出してから、イヤなこともたくさんあったけれど、軽めに見積もってもその100倍は幸せをもらったなと思っている。

幸せな仕事だと心から思えたのは、性格的に向いていたのと、大変さの種類が保育園とはまるで違う業種で働いていたからかもしれない。

実際、入職して初めて福祉の現場を体験した日は、こんな"仕事"もあるのかと、目からウロコがたくさん落ちた。

入職後の数年間は、モンテッソーリメソッドや療育の資格取得、研修などに週末が丸々費やされることもあったけれど、久しぶりの"勉強"は、気恥ずかしいくらいに学生気分に戻ることができて若返った(気がした)。

ただ。

50才を過ぎると、私の体力と関節が持たなくなってしまった。無念だ。

体の事情に家の事情もいくつか重なり(メインのひとつが猫の介護であることは保育園の関係者には決して言えない…)4月以降はクラスに入らず、少しずつフレキシブルに働けるようにしたのだった。

お給料ダダ減りの働き方改革…。

完全に保育園とサヨウナラをしたわけではないけれど、今は縁あって、寄り添いを必要とする保護者さまや療育的な支援を必要とするお子さまと関わらせて頂く機会が増えている。

そういった関わりが増えたためか、最近はつくづく、"普通"という言葉は厄介だなと思うようになった。

「普通のお母さんならきっと…」とか、「普通の子だったらこんなに…」とかから始まるフレーズを聴く機会が増えたからだろうか。

そんな風に悩むパパやママを前に、アカチャン先輩たちはまったく手加減を知らない。

たま~に骨抜きにしてやれば良いんでしょ、ニコッ!とかやっている…。

どうやら、ひとたび親という存在になると、多くの人が、こんなに多様性、多様性と叫ばれているのに我が子が「普通」であることを切実に望むようになるようだ。

でも「普通」ってなんだろう。

保育園でたくさんのお子さまと関らせて頂いたことで、「普通」などというあやふやな概念に、可能性のカタマリである子どもたちを当てはめるのはとても雑だし、意味がないと強く感じるようになった。

それに、ひとりひとりが多様性に富めば富むほど、全体としてはとても豊かな方向に進むものなんだな…ということも、あの小さな人たちに学ばせてもらった。

加えて、どんな特性がいつ役に立つかなんて誰にもわからない。

今、"良くない"とされている特性のおかげで生き延びる可能性だってあるだろう。

その場合は「普通」じゃない方が有利だろうし、そこまで大袈裟な話じゃなくても、そんなことは日常的にたくさん起きているはず。

大体、クリエイティブな現場だったら「普通」などと評価されたらがっかりする。

厄介でテキトー、いい加減な言葉だな、とつくづく思ってしまうのである。

そしてテキトーと言えば、息子の使う「普通」なんてもう、テキトーの権化である。

何を聞いても「フツー」で済ませようとする。

その返事では会話が成り立たない場合は「さぁ…」でやりくりする。

言葉を発するのが勿体ないとでも思っているのだろうか。

振り幅の激しい反抗期真っ盛りの中2男子。

いつもこんな感じなのですが、これって「普通」なのでしょうか?

ああ。

こんなに厄介でテキトー、いい加減だと思っているのに、ひとたび親のポジションに立てば、やっぱり誰かについ、そう聞きたくなってしまうのだった。