登山じゃん。

いつもの夏は、家の中にいるのが自分と猫だけなら、扇風機を頼みの綱に汗をダラダラとかきながらゴロゴロしている。


それが今年は、猫の病気が本格的になってきた上に、猫の苦手な高湿度だから、否応なしに24時間当たり前にエアコンをつけっぱなしにしている。


こんな状況は生まれて初めてだ。


エアコンがどうにも苦手という人は多いけれど、私も御多分に洩れずエアコンが苦手だ。


ただ、苦手というか、個人で使うのを避けたいと思うのは、お金がかかるからと温暖化の一因だからだ。


加えて、エアコンなんてとんでもない贅沢であるという価値観の中で育ってきたから、なんだか1人で使うなんて申し訳ないような、堕落したような気すらして、それで使えなかった。


でもこうして使ってみれば、身体的には快適この上なく、今年はこの贅沢な家電の恩恵にズッポリと浴してしまった。


老眼鏡と同じだ。この快適さを知ったらもう引き返すのは容易じゃない。


そんな風に、母親の私が従来の価値観と時代の変化とのハザマで苦悩しているにも関わらず、1人部屋で初めての夏を迎えるムスコの部屋は、大体いつ行っても、ここはアレですか?あの、夏の遊園地によくある冷え冷えドームなんですか?と言うくらいにキンキンに涼しい。


こんなに(節約に)口うるさい母親がいるのによくもそこまでマイペースを貫けるよね…と怒りを通り越してもう呆れるしかない。


しかしコイツの精神は少し軟弱なのではなかろうか…と、半世紀前に生まれた私は、かつて私がそう心配されてきたように、時々心配になってしまうのだった。


そんな中で昨日、高校の説明会というのがあり、ものすごく久しぶりに2人で電車に乗って目的の高校に向かった。


我が家から駅まで歩いて10分少々。駅に着くと早くも喉が渇いたと言う。


このくらい我慢しろと返す。


高校の最寄り駅に着くと再び、何か飲み物が欲しいと言う。


私も喉は乾いたものの、駅から高校までは徒歩わずか3分である。


今時、中学校にも自動販売機があるのだから、高校にないわけがない。


そう思い、着いたら買おうと言って再び却下した。


高層ビルのような高校に着くと、手際よく案内をされ、階段をどんどん登るように誘導された。


どんどん登る。どんどん…。どこまで??


息が切れてきた。この階段は一体どこまで続くんだろう。でも他のご父兄も皆、黙々と登っている。途中でリタイアする者はいない。私も足を上げるしかない。一歩上へ。また一歩…。


会場は、何の嫌がらせか8階にあった。


…登山じゃん。


天井の高い校舎の8階まで上がると、地表ははるか下にあった。


こんなの聞いてないし。


こんな暑い日に、休みなく8階まで登るのなら、せめて途中で声援が欲しかったし、バナナや水の補給も必要だった。頭が朦朧とする。


「ほらー。だから飲み物買おうって言ったじゃん!」


ムスコが、鬼の首を取ったかのような得意顔で文句を言う。


これはもう仕方がない。緊急事態だ。山の上は飲み物が高いのが一般的だが、悔しいが買うしかない。


係の人に、自動販売機の場所を聞いたら驚くべき返事が来た。


「それが…。この建物には自動販売機を置いてなくて…と言いますか、今、校内で入れる場所には自動販売機や水道も一切ないんです。駅まで行けば大きな自動販売機があるんですけど…。」


ムスコが大きなため息をついた。


親の面目も丸潰れな上に、ちょっと頭が痛い。


でも今は熱中症にだけはなれない。


今なってしまったら、ムスコは出先で飲み物をすぐ飲む人になってしまう(←それで良いのだけれど、その時はそう思った。)


昭和生まれにふさわしく、ここは気合いで乗り切るしかない。父も、熱中症なんてヤワな人間がなるのだと言っていた(そして母にこっぴどく怒られていた。)


深く深呼吸する。


説明会が終わったら下山するだけだ。大丈夫。


そうして無事に下山に成功すると、色々案内をしてくれるということだったけれど、もう高校のコトは高校に入ってからのお楽しみでいいじゃないか、ということで両者の合意が成立して、急ぎ駅に向かったのだった。


命からがら帰宅して思った。


やっぱり10代ってすごい。


毎日、学校に行くと見せかけて登山しているわけだから。先生たちはおそらく、隠しエレベーターにでも乗っているのだろう。


あんなところに毎日通うことになってしまったら登山するだけで疲れてしまい、勉強なんて到底してられない。


でも万が一、彼があの高校に行くことになって父兄会が8階で行われることになったら、そうも言っていられない。


涼しくなったらまたちょっと走ったりしよう。走ってるって誰も気づいてくれないけれど、走ろう。


それから水筒。


今回は登山することを事前に知らなかったから仕方ないとも言えるが、今の季節は乳幼児さんや高齢者じゃなくたって、どこに行くにも水分を持参しなければならないな…と、帰りの電車でひとり反省した。


ムスコは、母が得意の逆ギレをするだろうとわかっていたのだろう、幸いそれ以上は責めて来ることはなかったため、久しぶりの連れ立っての外出はボチボチ平和に幕を閉じたのだった。