生まれてこの方、好意を持っている相手に、ここまで傍若無人な振る舞いをされた記憶はひとつもない。
好意を持っていない相手からならたくさんある。
小学1年生の時に隣の席に座っていたカワムラくん。彼は私に対して本当に傍若無人だった。
当時、ネガティブな語彙と言えば「バーカ!」しか持たなかった彼は、私の顔を見れば「バーカ!」と連呼し、机をガンガンぶつけてきたり蹴ったりしてきた。
それから4年生の時に隣の席になったアオキくん。アオキくんもまた、かなり傍若無人な子供であった。
語彙がカワムラくんよりも多くなっていたので、毎日ちょっとしたことでネチネチとからまれ、とても鬱陶しかった。
ただ、今になって振り返ると、実際のところ2人とも私のことが好きだったのではないだろうか。
ついついちょっかいを出してしまうという、小さな男の子によくあるやつ。
その線で記憶をたぐってみる。
しかし色々と思い返してみても、そういったトキメキ要素はひとつも見当たらなかった。腹の立つことに、2人そろって私のことが大変イケ好かなかっただけに違いなかった。
しかし「好意を寄せていたのでは?」という線で少しばかり記憶を捏造すると、不思議なことに彼らの悪行に対しても「好きの裏返しだったのだから仕方がない、許してやるか」という気になる。
だから今はもう、「あの2人は私のことが好きだった」ということにしてやっている。
今や2人の存在は「小学生の頃は割とモテたんだけどね」というエピソードを語るのに絶対必要なピースである。
ひるがえって現在。
久しぶりに、私に対してあからさまにひどい態度を取る人物が現れた。
年齢はアオキくんより上の中学2年生。
カワムラくんとアオキくんは教科書をよく忘れた。
隣の席だった私は、先生に言われて渋々見せてやっていた。
2人には、その程度の親切しか施していない。
対して今回の相手は、私から受ける日頃の親切の量が彼らとはケタ違いである。
それだけ親切にしているのにも関わらず、彼が私に対して使う語彙は日を追うごとに短く、少なくなっている。
しかも会話は、あくまで彼の機嫌の良い時に限られる。
尽くすのが当たり前の存在。だから挨拶やお礼の言葉などは一切不要。かように奉仕しているからといってプライベートに踏み込むことは決して許されない。
どんな王国だよ。いつから召使いに格下げされたんだろう。あまりに理不尽、そして親に対して「不届き」という形容動詞がピッタリ過ぎる状況である。
しかし今回の相手、すなわち息子に対し、私は、カワムラくんやアオキくんの時とは大きく異なる感情を持っており、そこに大変やるせなさを感じている。
小学生当時、傍若無人な彼らのことが大っ嫌いだった。
しかし今はどうだろう。
あまりのひどい態度に、一度ぶん殴ってスカッとしたい…と、握りしめてスタンバイした拳を背中でワナワナと震わせる日々なのに。
まったく嫌いになれない。
それどころか先日、絶対に来るなと言われていた文化祭の合唱コンクールに忍び込んで隠し撮りをすることに成功した動画を、既に数百回は繰り返し観ている。しかも最初の10回くらいは、間違えずにピアノの伴奏を弾けたという理由で感極まり涙している。
何回観ても飽きない。
観ていることがバレたら逆鱗に触れるため、夜中にイヤホンをして布団の中でコッソリと観たり、スーパーの駐車場などでじっくり観たりしている。
(自分ごとで恐縮ですが)なんていじらしい。
そして、なんてお気の毒。
こんな感情は初めてだ。
たまに笑顔で話しかけられただけで嬉しい。
(そんな時には大抵ひどい要求が待っている。)
幸いにして、一昨年、諸先輩方から"お悩み相談"という形で、反抗期の海千山千のエピソードを聞く機会があった。
おかげで、息子の反抗期など、今の段階ではまだ反抗期とすら呼べない程度だと知っている。
そして自分の実体験に先輩ママたちの話を加味すれば、完全な出口に辿り着くまで、おそらくあと数年だ。
数年後には、まだまだ揺れることだらけであろうと、少なくとも親からは精神的に距離が出来る。距離ができた分だけ気遣いなどもしてくれたりするのかもしれない。
そう思うと、可愛くない態度ながらも甘えている今が少しだけ名残惜しくもなる。1人で必死に脱皮しようとしている最中なのかもしれない。
やるせない日々はもうしばらく続きそうなのだった。