天井から子ネズミが落ちてきても
見かけたらすぐに、丸めた新聞紙で息の根を止めなければならない生命体に遭遇しても
かなり冷静に対応して生活している。
侵入者3・落ちて来た子ども - onoesanと猫と保育となんやかんや。
保育園で。保育園にいるのは大体つまめるタイプの女だという話。 - onoesanと猫と保育となんやかんや。
しかし本日。
ここ3年間で最も大きな悲鳴をあげてしまった。
弱点は人それぞれである。
先ほど、生卵のパックを手にした瞬間、手元が狂ってそのまま落下してしまった。
その数6個。
50代のフットワークでは、それを柔らかくキャッチすることは出来なかった。
無念で涙も出なかった。
常日頃、牛乳だけはこぼしたくない、卵だけは落としたくない、そう思って生きてきた。
その思いの所以は、両者が本来、生き物が母として生み出すもの、苦痛や労力に耐えて生産されるものであるというところから来ている。
同時に、第一生産者(ここでは特別に牛と鶏を指します)に対するせめてもの、勝手ながら無駄には致しませんという側面と、片付けるのが大変、という側面から成り立つ。
同じ性質を持つものでも、"洗えばなんとかなる"モノが多い中、この2つは取り返しがつかない。
だから今日は落ち込んだ。
落ち込んだから、ついつい飲み過ぎている。
フラフラするので、本日はこれまで。閉店ガラガラ。
今日はもう、家事はしてはいけないと自戒している。
第一生産者(ここでは牛と鶏…酔っ払っているのでしつこい)だけではない。
卵が足りず困っている人がたくさんいる昨今、本当に反省しかない。土下座したい気持ちでいる。
話はそれだけでは終わらない。
パックごと落としてしまったので冷蔵庫には既に卵がなく、明日のお弁当は鉄板の卵焼きでスペースを埋めることができない。
…。
…。
先ほど、柔らかくキャッチすることは出来なかった…と書いた。
しかし床に着地してから、およそ0.5秒(自分調べ)で掬い取ることは出来たのだった。
3秒ルールで言ったら完璧過ぎるセーフである。
セーフである上に、私の3年ぶりの悲鳴に対して反応したのは慌てて逃げた猫だけで、主人はサッカー、ムスコはゲーム、揃って画面から視線を離すことすらしなかった。
誰も、
「おかーさん、どうしたの?大丈夫?」
と駆けつけなかった。
このことは不幸中の幸いだった。
3秒ルールを完璧にクリアしている為、まずあり得ないが、2人のお腹が多少痛んだところでその苦痛は第一生産者(ここでは、牛と鶏…)の痛みを考えたら、比較にもならないのではないか。
ということで先ほど、2人の動向と自らの手元に細心の注意を払いつつ、50代にあるまじきスピード感で明日の2人のお弁当に入れる卵焼きの調理をし終えたところである。
納豆と万能ネギという、香りの強い二つの素材を豪華にも投入、色々入ることでより一層、完全犯罪が成立した気がしている。
こうして床の掃除を終え、割ってしまった卵の行末も決着したのだが、今回のことで気づいたことがあった。
「しろくまちゃんのほっとけーき」
保育園のお子さまたちも、ムスコも、姪っ子も甥っ子も、さんざんお世話になった大人気の名作絵本である。
ご存じでしょうか。
このシーン。
私は今回、自分が卵を床に落としたことで初めて、
あー。今までの読み聞かせ、間違ってたわー
と深く反省したのである。
しろくまちゃんの表情も、なんなら棒アイスがハズレだった程度である。おそらく作者も卵を床に落とした経験がないのではないだろうか。
だから私も今までうっかり、棒アイスが外れた程度の雰囲気で読んでしまっていた。
そのあとの、ホットケーキを作る過程のリズミカルな文章が好き過ぎて、ここは完全におざなりにしていた。
卵を実際に床に落としてしまった今、ここの読み方はもう、昨日までのようにはいかない。
明日からは保育園でこの本をリクエストされたら、卵を床に落としてしまったあの悲痛な思いを少しでもお子さまたちに伝えられたら…と思っている。